mesetaのブログ

ウォーキングとフラメンコ
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世界遺産 石見銀山へ 2日目-1 温泉津温泉~石見銀山

ブログを始める前に行ったところの振り返りです。


2012年4月9日(月)1日目 萩・石見空港~温泉津温泉
2012年4月10日(火)2日目-1 温泉津温泉~石見銀山
2012年4月10日(火)2日目-2 出雲大社~松江
2012年4月11日(水)3日目 松江~境港~鳥取砂丘
3日間を4回に分けて記します


2日目の前半です
世界遺産 石見銀山へ -1  温泉津温泉~石見銀山 曇


朝食前に温泉津町を散歩します。ここには石見銀山で採れた銀を積出した港があります。

温泉津は銀の積出港となるとともに、銀山へ物資を供給する基地ともなりました。こうして温泉津から銀山までの間に銀と鉱山開発を支える物資の行き交う道が開拓・整備されました。現在、私たちが銀山街道と呼ぶ道の最初のものです。1600年(慶長5)に関ヶ原の戦いが終わると石見銀山は直ちに徳川幕府の支配下に入れられ、初代銀山奉行大久保十兵衛長安のもと、積極的な開発が進められて、多くの銀が産出されました。


6:11  旅館のがわや


街並保存地区・温泉津(ゆのつ)温泉にある「旅館のがわや」。石見銀山は平成19年7月、世界遺産登録されました。地元漁師がとってくる近海の海の幸と新鮮な地魚をふんだんに使い、彩り鮮やかに仕上げた季節の料理と1,300年以上続く天然温泉掛け流しの湯が楽しめます。 大正生まれの老舗の宿が、自慢の天然温泉と新鮮な海鮮料理でおもてなしいたします。


6:13  西楽寺(さいらくじ)


西楽寺は、覚兆庵という禅宗の寺院でしたが、1521年(大永元年)、浄土真宗に改宗しました。1603年(慶長8年)に西楽寺に改称し、本堂が造営され、さらに1831年(天保2年)に再建されました。昭和63年には大屋根を葺き替えるなどの大修復工事が行われました。
織田信長との大阪石山合戦時に本願寺顕如上人からの応援要請の手紙(杖籠りのご消息)が現存しています。


6:15  恵珖寺(えこうじ)


恵珖寺は、1525年(大永5年)、真言宗から日蓮宗に改修した寺院です。 1587年(天正15年)には戦国武将細川幽斎が、豊臣秀吉の九州遠征の陣中見舞いの途中にここに立ち寄り、地元の町衆と百韻連歌の会を催しました(参加者8名で幽斎は23句を吟じましたが、その記録は隣の西楽寺に残されています)。 山門内部には、毘沙門天(左)、増長天(右)が置かれ、境内左手の墓地には初代石見奉行大久保長安の逆修墓があります。 また本堂裏手の墓地には、数多くの墓標が一つの屋根の下に並ぶ廟式墓地があります。廟式墓地は中国や沖縄など南方系の風俗から伝わったとされ、北前船を介して全国各地と交易があったことを伺わせます。


6:16  薬師湯

ひなびた温泉街の中でひときわ目をひくレトロ調で洋風建築物である薬師湯は石見銀山の玄関口として栄えた温泉津温泉の町並みのシンボルです。 昔から湧き出ていたのが、1872年(明治5年)の浜田沖地震で湯柱を上げたので「震湯」または「藤の湯」とも呼ばれ親しまれて来ました。 今、カフェとなっている隣の旧館は1919年(大正8年)に建てられた木造洋風建築で温泉街に大正ロマンの香りを漂わせています。 旧館の設計は松江城公園にある興雲閣(松江郷土館)の設計も手がけた和泉利三郎です。


16:17  妙好人浅原方市銅像


浅原才市は、嘉永4年(1851)生まれ。昭和の妙好人といわれ、町の人々に慕われ尊敬されました。船大工や下駄職人で生計を立てていましたが、晩年に五千とも一万とも言われる句を書き綴りました。才市の残した含蓄深い句は人々の心を打つものがありました。元湯(もとゆ)前に広がる石畳の広場中央にあります。頭に生えた角が存在感をアピールしています。その威徳を慕って参拝に来る人も少なくありません。


6:18  湯治の湯:元湯温泉

温泉津温泉元湯の由来


約1300年の歴史を持つ元湯は、湯治場としての温泉津を世に広めた由緒ある温泉で、毛利家より湯主に任じられた伊藤家が代々管理・運営しています。 元湯の温泉にはユニークな発見伝説があります。昔、旅の僧が温泉津に宿泊した際、妖怪に襲われたので斬りつけました。血の跡をたどっていくと一匹のタヌキが温泉で傷を癒していた、という言い伝えで、「泉薬湯」と書かれた看板の上にもこれにちなむタヌキのレリーフがあります。 源泉は透明ですが、空気に触れることで湯船には湯ノ華がみられます。一番熱い浴槽は48度もあります。 源泉の脇にある「温光寺」は薬師如来を祀り、船絵馬、格天井が残っています。


6:25  トンネルをくぐって回り込んできました:右の下が元湯方面です

やきもの館の方に行ってみます


6:29  やきもの館


6:31  大きい方の登り窯:長さ30m15段


もう一つの登り窯:長さ20m10段


温泉津やきものの里
温泉津やきものの里 温泉津やきものの里には、やきもの館と二基の登り窯があります。やきもの館は温泉津焼の資料館です。雑器や道具を展示する温泉津焼歴史資料展示コーナーや、焼物の歴史と作陶の工程を紹介するビデオルーム、また創作体験室もあります。長さ30m15段と長さ20m10段の2つの登り窯が復元されており、その大きさは全国でも最大級と言われています。毎年春と秋に開催される「やきもの祭り」では、ほぼ一昼夜に渡って摂氏1300度に達するまで燃えさかる登り窯の様子を目にすることができます。 ちなみに温泉津焼は江戸時代中期から生産が始まり、水瓶や壷などの日用品が北前船で全国に運ばれました。耐火性の強い陶土、釉薬に適した温泉津長石、焼成に欠かせない豊富な松材、築窯に適した斜面、天然の良港など条件が整って、温泉津は焼物の一大産地となりました。特に「はんど」と呼ばれる、出雲の来待石を釉薬に使った飴色の水瓶は、石見の特産としてもてはやされました。


6:51  温泉津湾


7:01  西念寺(さいねんじ)


西念寺は、然休上人を開基として、1571年(元亀2年)に建立された浄土宗の寺院です。然休上人は毛利元就が九州の立花城を攻めた際に手柄があった僧です。 現在の西念寺の境内は、もともと狭かった谷の岩盤を毛利家の手勢が手掘りで切り拓いたものと伝えられており、寺の脇から沖泊に続く往還道を見ても、切り立った岩盤が道となっています。「馬つなぎ石」も残され、付近には銀山役人松浦氏の宝篋印塔などの石造物が残されています。 西念寺の中庭には元就手植えの梅と伝えられる紅梅の老木があり、毎年2月頃に美しい花を咲かせます。
西念寺本堂:石見霊場第30番


現在の本堂は明治十二年、第二十世念誉隆乗上人によって再建されたもので、間口七間半、奥行き七間の総欅造りです。


7:04  愛宕神社


愛宕山からは波の美しい温泉津湾や赤瓦の町並みが風情豊かに望まれます。大久保石見守は海が眺められる愛宕山と温泉街の中の恵珖寺に逆修塚を建てています。逆修塚とは、生きている間に墓標を立てることで、生前に塔を建てて逆修すると、死後にその功徳の全部を得ることができるといい地蔵菩薩本願経などに逆修の菩提のことが書かれています。県指定文化財の謎の梵鐘があることでも知られています。梵鐘は明応6年(1497)卯月(2月)の銘があります。もともと、隠岐郡海士町勝田山源福寺の鐘でしたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して供出され、返還の時に間違って温泉津に運ばれたと伝えられています。


7:05  愛宕神社から見た温泉津湾


7:10  庄屋屋敷内藤家のなまこ壁:昨夜は暗くてよく見えませんでした


内藤家 毛利元就の家臣。鵜ノ丸城の初代奉行として赴任。そのご庄屋、廻船問屋、酒造業などを営んだ内藤家の歴史を伝える屋敷と土蔵群、特徴あるなまこ壁、縄のれん、格子窓や虫籠窓などが往時の隆盛ぶりを今に残しています。


8:40  この後旅館に戻り朝食を済ませて、石見銀山に向いました。
旅館の方から石見銀山に無料ガイドがあるから利用したらよいという話を聞きました。


9:08  石見銀山駐車場:大森の町並みの模型

右奥の建物に無料ガイドの受付がありました
ガイド時間は10:30~12:30ということなので、それまで周辺を散歩します


9:20  「石見銀山見てあるき」というパンフレットをもらい、町並み地区に行きました
武家屋敷が並ぶ道を町並み交流センター、旧河島家、柳原家などを見ながら戻ります


9:54  有間光栄堂:大森町並にあります、名物「げたのは」を買いました


大森の町並みにある唯一のお菓子屋さん「有馬光栄堂」。200年以上続く老舗で、かつて銀山の抗夫たちも食べていたと言われる「げたのは」軽い歯ごたえと、黒糖のやさしい香りと味が口に広がり、ついつい手が伸びてしまいます。


9:57  石見銀山代官所地役人遺宅 三宅家


代官所地役人の旧田邊家遺宅。初代田邊彦右衛門は江戸幕府初代奉行大久保長安によって甲斐国から召し抱えられた。門塀、露路門(ろじもん)を備えた武家の住宅である。(非公開)


10:02  自動販売機も町並みに合わせた木製の枠に入っていました


10:09  羅漢寺:傘みくじがあります


10:18  羅漢寺 五百羅漢


銀山で働いていて亡くなった方の供養や安全を祈願するために、岩山を25年間、掘り続け、その洞窟に羅漢像501体が納められています。五百羅漢は、上を向いている像、笑っている像、泣いている像、手を上げている像など様々な表情をしていて、石窟へ入った瞬間はしばらく立ち尽くすほどの衝撃がありました。


10:20  五百羅漢はこの中にあります


 10:30  無料ガイドツアーに参加するために銀山公園前に戻りました
残念ながら現在無料ガイドツアーはなくなっているようです

2014.03.04  世界遺産「石見銀山」の龍源寺間歩、町並みへの観光にご来訪の皆様へお願いです。平成26年4月1日より「無料ガイドツアー」は、「定時ワンコインガイドツアー」に替わります。現在、1日2回定時に催行されている龍源寺間歩無料ガイドツアーと大森の町並み無料ガイドツアーは平成26年3月31日で終了します。長い間、この無料ガイドに参加いただきありがとうございました。平成26年4月1日より、龍源寺間歩、大森町並みのガイドツアーは、新しく「定時ワンコインツアー」として催行することになりました。
◆参加費:大人500円、小中学生100円
 ※参加料とは別に、龍源寺間歩入場料(410円)はお客様負担となります。

◆所要時間:約2時間
(銀山公園出発~龍源寺間歩まで各ポイントの遺跡・遺構を案内し、間歩に入坑した後、高橋家横で解散)
 ※ツアー終了後、高橋家横から銀山公園までの約30分は別途かかります。
◆催行人数:1名~20名
◆集合場所:銀山公園前(石見銀山ガイドの会事務所前)


10:37  ガイドさんの後ろに10数人が続きます

この辺りは平坦ですが、遊歩道に入ると上り坂になります


10:53  道端の花


10:55  変った花が咲いています


10:57  遊歩道に並行する通りの向うにある大森小学校で写真撮影をしていました
全校生のようです


10:58  大久保石見守墓を説明するガイドさん:妙正寺跡から200m、豊栄神社まで300m


大久保石見守の墓(おおくぼいわみのかみのはか)
大久保石見守長安は、1600年(慶長5年)に徳川家康から任命され石見国の初代奉行として着任、卓越した手腕を発揮した人物です。公費による積極的な鉱山開発や税制の改革などを進め、銀の生産高を飛躍的に増加させました。 長安は1605年(慶長10年)、銀山地区に正覚山大安寺を建立しました。この境内には長安の墓碑(逆修墓)と紀功碑、五輪墓があります。 逆修墓とは生前に自分の法名を付けた墓のことで、建立によって大きな功徳を得られるとされます。紀功碑は、第39代代官菅谷弥五郎が1794年(寛政6年)昔の繁栄の復活を願って碑文を書き、佐和華谷が文字を書いたものです。 


11:12  安養寺方面


11:18  精錬所跡入口


明治時代になると、石見銀山では、一部の既存の間歩(坑道)を利用した地元の人たちによる小規模な採掘がかろうじて続いていましたが、明治19年に大阪の藤田組が、仙山(せんのやま)の福石鉱床の金銀含有率と量に着目し、近代的な製錬所を建設しました。しかし鉱石の品質が予想より悪く、また設備の銀の製錬能力もなかったことから不採算となり、明治29年で操業を停止しました。その施設跡です。


11:48  高橋家:石見銀山御料銀山町寄山組頭遺宅


文献によれば天保10年(1839)ごろ、当家の高橋富三郎が町年寄山組頭を勤めたことが分かっている。山組頭は、代官所と鉱山経営者である銀山師たちとの取次ぎなどを勤める役職で、銀山師の中から選ばれた。また、町年寄は周囲に拡がっていた銀山経営に携わる人たちが住む町の運営に係る役職であった。建物は通りに面して主屋があり、北側に茶室、南側に離れ座敷を設けている。昭和50年(1975)に「石見銀山御料銀山町寄山組頭遺宅」として島根県指定史跡に指定されています。


12:01  龍源寺間歩:本日のハイライトです


「間歩」とは銀を採掘するための坑道のことです。石見銀山には大小合わせて約600の間歩が存在するとされますが、現在、通年一般公開されているのはこの龍源寺間歩だけです。 江戸時代初期に開発され、永久・大久保・新切・新横相の間歩とともに『五ヵ山』と称される大坑道でした。江戸時代中期には代官所直営の間歩(御直山)として操業されました。 龍源寺間歩は全長約600mに及びますが、このうち見学できるのは入り口から157mの地点までのところです。坑道内の壁面には当時のノミの跡がそのまま残っており、当時の採掘の様子がよく伝わってきます。


12:02  龍源寺間歩受付

ここで歩くのがかなりきつそうだった1組がリタイヤしました。


12:02  龍源寺間歩入口:全長約600m、見学コースは157m

入る前に岩が突き出ているので頭をぶつけないようにとの注意がありました


横穴


この立坑は排水坑です。龍源寺間歩に溜まった水を約100メートル下の永久坑道へ排水したといわれています。


奥が出口です


出口近くの通路に何枚もの電照板展示がありました
江戸時代の後期に描かれた「石見銀山絵巻二巻」の上巻から坑道内作業の様子です

石見銀山絵巻は、鉱山の作業風景を日本の伝統的な絵画形式である絵巻物によって描いたもので、上下2巻でその長さは延べ24メートルにも及んでいる。この絵巻の作者及び画作年代については不明であるが、絵巻中に描かれている「石留」は文政年間(1818-1829)以降の技術と考えられるので、従って画作年代はそれ以降であると思われる。


①四つ留之図:坑道の入口を「四つ留」といい、丸太の木を組んで土石の落ちるのを避けて安全な入口をつくった


③御代官銀山見廻りの図:御代官の御用見廻りは年数回行われていたようだ


④四つ留役所前柄山捨場:銀の含有の少ない捨石(柄山)を捨てる場所を「柄山捨場」と呼び、良質の石が混じっているところから女や子供がが鉱石拾いをするようになった


⑤鋪内之図(しきうちのず):間歩坑内を鉱石の運搬や坑内の支木や留木を持ち運んでいる様子


⑥片立木留之図:横穴留山の片側土の所へ立木を建てて横木を渡す


⑦留山師両立木留いたす図:掘子大工が立木で中程の横穴に支柱を設えるところ


⑨唐箕風箱之図:江戸時代中頃から唐箕(とうみ)を改良して坑外の風を坑内に昼夜送る作業を行った


鉱石を掘る:堀子(ほりこ)はタガネを鋏(はさみ)で固定し、鎚(つち)でたたき鉱石を掘りました。暗闇、油煙、石塵(せきじん)の中でたいへんな労働でした


鉱石を選ぶ:掘子が鉱石をかますに入れて背負い運んでいます。狭い坑道の中をさざえの殻のランプの明かりだけが頼りでした。


坑木を組む:落盤防止のための坑木を組むのが留山師の仕事。坑道内が崩れるのを防ぐ重要な仕事でした。坑木を人力で曳いて運んでいます


12:18  龍源寺間歩出口


入口とは全く違う場所です、所要時間約15分でした


12:20  石見銀山鉱床断面図


12:50  鉱石


ここから下っていきます


12:24  栃畑谷・昆布山谷(とちはただに・こんぶやまだに)

この説明板の左手、少し高くなった場所に鉱山の神である金山彦命(かなやまひこのみこと)を祀る佐毘売山神社があります。参道から佐毘売山神社に向かって左側の谷が出土谷、右側が昆布山谷で、現在の地を含めて、龍源寺間歩出口前の川に沿ったこの谷一帯が栃畑谷です。どの谷も銀山開発にともなって造成した平坦地が階段状に連なり、石垣や井戸、間歩(坑道)が見つかっています。


12:28  佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)


往きは遊歩道を通りましたが、復路は舗装道路を下っていきます


12:55  西本寺(さいほんじ)


西本寺の前身である西本坊の創建は不詳ですが当初は出雲国神門郡白枝村にあったと伝えられています。寛永年間(1624~45)、石見銀山の住民熊谷宗右衛門尉直政が6世空乗和尚を招いて白枝村から当地に境内を移し西本寺に寺号を改めています。山門は石見銀山を守護する為に築城された山吹城の城門と伝わるもので、切妻、桟瓦葺、四脚門(本柱の前後に控え柱を設けた格式の高い門)。
西本寺入口


13:04  何の碑でしょうか


13:05  振返ると山吹城跡(要害山)が正面に見えました


銀山柵内にある要害山に築かれた標高414mの山城跡。戦国時代、銀山をめぐる争奪戦の拠点となった


13:30  銀山公園前に戻ってきました


13:48  ベロタクシー


ベロタクシーは、1997年にドイツの首都ベルリンで『環境にやさしい新しい交通システムと、動く広告がひとつになった乗り物』として開発された自転車タクシーです。バスや鉄道などを補完する交通手段としてだけでなく、環境問題・高齢化社会問題・地域経済の活性化・雇用問題などの解決策のひとつでもあります。
運行案内    ○運行時間   9:00~17:00(天候により運休の場合があります。)
                  ○料金 片道1名あたり   2014年4月1日料金改定後         大人     小人
                                                   銀山公園 ←─→ 龍源寺間歩 片道 2,200円  1,600円
                                                                 往復 4,100円  2,900円

                                                   銀山公園 ──→ 代官所跡前  片道 1,000円   700円
                                                    代官所跡前 ─→ 銀山公園  片道 1,300円  1,000円

                                                    貸し切りは 1時間 6,300円/台

                     ○最大定員(1台あたり)    大人2名、幼児1名


先ほど龍源寺間歩でリタイヤした人はこのベロタクシーを呼ぶといっていました


13:50  次の目的地出雲大社へ向けて出発です


2012年4月10日(火)2日目-1 温泉津温泉~石見銀山 の感想
朝食前の1時間温泉津(ゆのつ)の町をほぼ一周しました。観光案内をもらうまではここが石見銀山と深い関わりがあるとは知りませんでした。採掘した銀を運び出す積出港になっていたということです。
チェックアウトするときに旅館の人から、石見銀山に行くのなら無料ガイド(現在は有料)を利用した方がいいと教えてもらいました。
石見銀山に着いてすぐ石見銀山ガイドの会受付場所を探します。駐車場のそばにあり、すぐ申込みました。集合時間までの間、町並み地区を散策しました。
ガイドを申込んで大正解でした。2時間コースのポイントごとに丁寧な説明をしてもらい、当時の状況が手に取るように理解出来ました。もし、頼まなかったらただ見学しただけで、何も印象に残らなかったと思います。これがきっかけで、旅行するときには事前に調べてガイドを予約するようにしています。


以上です。