mesetaのブログ

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2019.8.25 小沢城址徹底散策&穴澤天神社大祭

2019.8.25(日)晴


今日はよく行く小沢城址を徹底的に歩いてみました。
小沢城址は歩いて1時間ほどのところにあります。多摩自然遊歩道を回ったとき、コースに含まれていて初めて通りました。適度なアップダウンがあり、高尾山稲荷山コースを思わせる山道が気に入っています。



小沢城址について | 【公式】小沢城址里山の会
小沢城は、鎌倉時代式の防衛線としての山城であったと伝えられています。当時、北側は多摩川を眼下にのぞむ峻険な崖で、敵が容易には近付けない天然の要塞としての条件をよく備え、府中方面を見渡せる戦略上重要な拠点でありました。
 城主は、小沢郷を領した稲毛三郎重成、妻は源頼朝の妻政子の妹で、頼朝の重臣として熱い信頼を受けた人です。重成は、この城を拠点として今の高津、中原区方面まで勢力を拡大しました。建久6年(1195)妻綾子をなくしてからは入道重成と称し、その後城を長男の小沢小太郎重政に譲り、自らは東南4kmにある枡形城へ移ったと言われています。この城の近くは、鎌倉道が通る交通の要衝で、鎌倉時代から戦国時代にかけてたびたび合戦の舞台となりました。なかでも、鎌倉時代末の元弘3年(1333)新田義貞の軍勢と北条高時の幕府軍との分倍河原(府中市)の合戦は有名です。「太平記」には、5月15・16日の両軍の激戦で、多摩川の防衛線を破られた幕府は6日後の5月22日に新田義貞により滅ぼされたことが記されています。


小沢城址マップ
マップは小沢城址里山の会のマップを参考にしています

右の①から順番に歩きました


指月橋:京王稲田堤駅方面から来て指月橋の手前を右に曲ります


指月橋と指月橋の物語説明板

指月橋の物語

皆さんが何気なく渡っているこの橋にも歴史の一コマが秘められております。これは、文治二年(1186年)今から八百五十年前の出来事に由来します。
皆さんもご承知の通り義経と弁慶たちは、義経の兄である源頼朝に追われる身となりました。それは、一ノ谷の戦いで平家を痛め付け、壇ノ浦で滅ぼした功績により、後白河法皇から検非違使の位(盗賊の逮捕・風俗の取り締まり・非法の弾圧に当たる任務・現在の県警本部長に相当する位)を授かりました。これが頼朝の耳に入り、兄の許しも得ず平家を滅ぼし、朝廷より過分な位まで授かった事への怒りをかってしまったのです。そこで頼朝は、「義経、弁慶どもを捕らえよ」という布令を出したのです。そうとは知らぬ義経達は、京から鎌倉を目指していました。しかし、途中の静岡あたりでその事に気付きました。そこで鎌倉へは向かわず、義経が幼い頃より青年時代までを過ごした岩手県の藤原秀衡の元に逃れることにしました。その道すがら一夜の宿を寿福寺に求めてこの橋まで来ました。しかし、橋板が朽ちて穴があいていました。(私が十歳、つまり昭和九年頃は、直径十センチ位の松の丸太が敷き詰められていました)このまま馬に乗って渡ったのでは馬の足がはまって骨折してしまうため馬から降りて点検することにしました。ふと夜空を見上げると満月が皓々と輝いていました。その満月を指して「今宵も良い月じゃのー」と言ったかどうか定かではありませんが、指月橋の指月とはまさにそれなのです。(小沢城址里山の会 広報担当 菅の語りべ 宮崎安好 平成十三年四月十日)


多摩自然遊歩道案内板


右へ曲ると「この先行き止まり 通り抜け出来ません」の看板があります


先に見える小高いところが小沢城址です


小沢城址入口にある多摩自然遊歩道の説明板


小沢城址緑地保全地区

小沢城址は、昭和62年11月4日、川崎市の特別緑地保全地区に指定され、緑の保全とともに維持管理されています。


多摩自然遊歩道案内板


② 三沢川入口

三沢川入口 | 【公式】小沢城址里山の会
稲田堤駅(もしくは京王稲田堤駅)を降りて南に進み、三沢川沿いに川上に向かって進むと「三沢川入口」があります。


どんどん上っていきます


小沢城址里山でのルール


長い階段が続きます


探照灯基地跡が見えてきました


④ 稲田(菅)探照灯基地跡

探照灯跡地 | 【公式】小沢城址里山の会
多摩区の丘陵地帯には太平洋戦争の末期まで米軍の空襲に備え数か所の探照灯基地がありました。この付近のくぼ地にも防空隊の探照灯基地があり兵舎や電源車と共に探照灯や調音機などが設置されていました。(探照灯は高空を飛ぶB29爆撃機を照射し高射砲と連携して攻撃します)当時は探照灯の電源車に使用する燃料が不足していたため、兵隊さん達が付近の尾根に多く自生していた赤松を伐採し根から松根油を採取し燃料としていました。そのためか小沢城址に残る赤松は僅かになっています。


④ 稲田(菅)探照灯基地跡の様子


一旦下ります


⑤ 多摩自然歩道標識:浅間山方面に進みます


また上りになりました


⑥ 鷹の巣

鷹の巣 | 【公式】小沢城址里山の会
屋号の物語
ここから先方に見える家が、昔から屋号が「鷹の巣」と伝えられています。その由来は徳川将軍家が明和十年(1725年)ころから稲毛領の村々がお鷹狩場となり度々鷹狩りが行われました。この地域にも狩りが行われ一行が当地に宿泊した中で、お鷹匠役人の定宿になっていたことから「鷹の巣」と屋号がつけられました。
また仙谷地区では小沢城に関連して「城」・「おきのかじや」と呼ばれる屋号があります。


上り階段はまだ続きます


さらに上っていきます


左が平場、右へ曲ると浅間山になります


平場にある小沢城址の概要 説明板


⑧ 平場


多摩自然遊歩道案内板


浅間山への階段


浅間神社が見えてきました


⑨ 浅間山と浅間神社

浅間山 | 【公式】小沢城址里山の会
小沢城は標高約90mの浅間山・小沢峰(物見台)・八州台(富士塚)の三つの峰を中心に構成されていて、地元では一般に「天神山」とよばれ親しまれています。浅間神社は富士山信仰の神社ですが、碑には「武州橘樹郡菅村 世話人惣村中 文化三寅年」と刻んであります。この付近から小沢城の防御投石用と思われる「つぶて石」が多く発見されたそうです。


浅間神社

正面の文字は「惣村中」と読めます


浅間神社の左側礎石には何か書いてありますが、判読不能です


浅間山 標識


⑩ 古井戸

古井戸 | 【公式】小沢城址里山の会
古井戸の跡
この穴は小沢城の古井戸の跡で下の台地にあった館の生活用水として使ったものと思われます。昔は深い穴でしたが、危険であることで付近にあった「つぶて石」(城の防御投石用の石)などで埋めたと言い伝えられています。小沢城址の貴重な遺構のひとつですので大切に保全管理をしています。


⑪ 物見台

物見台の物語

この場所が物見台(小沢峰)と言われています。現在は樹木に覆われ展望がありませんが、当時は江戸から秩父方面まで関八州が広く見渡せたものと思います。その後昭和になってこの付近を八州園と呼びにぎわった時代がありました。


階段を下ります


⑫ 空堀

物見台と空堀 | 【公式】小沢城址里山の会
小沢峰の北側は絶壁が続き当時は山裾には多摩川本流が流れていて、自然の要害となっていたにもかかわらず更に山の斜面を掘って「空掘」とし敵の侵入を防いだところです。またこのような空堀は浅間山の東側にも設けられています。


菅仙谷方面分岐点


菅仙谷方面に下っていきます


左側の竹林


⑬ 右側の竹林


⑭ 仙谷入口


⑬ 来た道を戻ります


⑫ 分岐点に戻ってきました、左に曲ります


 分岐点:この先で合流します


⑯ 八州台(富士塚)


⑯ 小沢城址 説明板


⑯ 小沢城址


⑯ 富士講碑


富士登山の記念碑

冨士登山の記念碑 | 【公式】小沢城址里山の会
大きな碑は昔の冨士講(冨士山信仰の講社)の三十三回登山記念碑で明治九年(1876年)に、小さな碑は更に古く万延元年(1860年)に建立されたものです。多摩区金程、黒川から稲城市にかけての地域に「山冨講」という冨士講があり、講社の笠印は冨士山形の「冨」の講紋を持っていました。後ろの小高い所は冨士塚で登ることで冨士山に登ったことと同じご利益が授かると言われています。塚の築造当時には冨士浅間神社石碑がありましたが現在は失われています。当里山の会では小沢城址の自然環境を守ると共に冨士講記念碑や冨士塚などの遺構の保存に努めています。 


もう一枚の小沢城址 説明板


小沢城址里山の会 掲示板


⑰ 馬場広場


⑱ きたん坂の標識


⑲ ふれあいの森


⑳ ふれあいの森


㉑ きたん坂入口:右の細い道です


近づいて見るとこんな感じです


小沢城址の張り紙が見えます


多摩自然遊歩道案内板

来た道を戻ります


⑳ 石が敷いてあります


⑲ ふれあいの森に入らず真っすぐ進むと、石がなくなり歩きにくくなります


⑲ 右はふれあいの森からの道です、その先を左に曲ります


多摩自然遊歩道案内板


㉒ 木の根っこで歩きにくいです


(ジャイアンツ)球場入口に出ます


㉓ (ジャイアンツ)球場入口


巨人軍室内練習場前からの眺め


巨人軍室内練習場


㉕ 天神坂入口


㉕ 狭い道です


㉖ 天神坂を上ります


稲城市自然環境保全地域の説明板


球場入口からきて富士塚方面に抜ける道


㉗ お稲荷さん


㉗多摩自然遊歩道案内板


㉗ 天神坂 標識


㉖ 天神坂を下ります


㉙ 穴澤天神社方面入口


㉚ 穴澤天神社の上に出てきます


お祭りのようです


大勢の人が出ていました


穴澤天神社


国指定重要無形文化財 江戸の里神楽 山本社中:継承十九世 山本頼信


穴沢天神社の祭礼について
令和元年の穴沢天神社の祭礼は、8月25日(日曜日)です。
江戸の里神楽は午後1時ごろから、穴沢天神社内の神楽殿にて見ることができます。
山本頼信(やまもとよりのぶ)社中の江戸の里神楽は、初代の山本権律師弘信(やまもとごんりつしひろのぶ)が室町時代初期の応安(おうあん)6年(1373年)に創始したといわれ、現在の家元山本頼信氏は十九代に当たります。


しばらく見ていたら何かをまき始め、みんな神楽殿に近づいて受取ろうとしています


そのままじっとしていたら、突然目の前に飛んできたのでナイスキャッチしました


中身は大き目なおもちでした、ご利益があるかもしれません


屋台も出て賑やかです


こちらが本来の参道です、急な階段です


㉜ 穴澤天神社参道入口


㉝ 稲城阿波おどり「乙奴連(おどれん)」の一行が穴澤天神社へ向っていきました


1999年に稲城市商工会女性部を中心に、町興し目的で阿波おどりを結成。その後、商工会から独立した連となり、現在では一般会社員やOL、主婦や学生、子どもたちも多く在籍しています。


2019.8.25 小沢城址徹底散策&穴澤天神社大祭 の感想
日曜日はいつも数人とすれ違うのですが、今日はランニングとウォーキングの男性二人だけでした。何気なく通って見過ごしていた「きたん坂」の標識や、各入口に名前がついているのを小沢城址里山の会のホームページで初めて知りました。
今まで要所要所の案内板は物見台にあるようなガラス張りの立て看板で、風雨にさらされにじんで読めないものもありました。それが今年6月から斜めの譜面台のような形に変り、新しくなっています。他にも遊歩道の整備など里山の会の活動により、我々は楽しむことができるということを痛感しました。
お祭りの日とは全く知らないで穴澤天神社へ行ったところ、国指定重要無形文化財江戸の里神楽をやっていました。おまけに餅まきではもらうつもりはなくただ眺めていたら、いきなり飛んできてよけるようにダイレクトキャッチしました。まさに棚からぼた餅です。


以上です。