mesetaのブログ

ウォーキングとフラメンコ
Walking,Flamenco&Guitar
Caminante,Flamenco y Guitarra

2020.03.12 海沿いの小径に城下町の自然と歴史を訪ねて 小田急沿線自然ふれあい歩道3-45

2020.03.12(水)小田原駅コース 5.8km 晴
ルート:小田原駅~①小田原城址公園~②お堀の今昔~③御感(ぎょかん)の藤~④曲輪(くるわ)と堀~⑤報徳二宮神社~⑥天神社~⑦玉伝寺~⑧居神(いがみ)神社~⑨大久寺~⑩早川口遺構~⑪西海子(さいかち)小路~⑫正恩寺(しょうおんじ)~⑬御幸(みゆき)の浜海岸~⑭松原神社~⑮大手門跡と鐘楼~⑯イヌマキの大径木~小田原駅


今日2コース回れば第3エリアが終了します。小田原駅の構内にあるラックに自然ふれあい歩道のコースマップが一段4列に並んでびっしり置いてありました。しかしよく見ると全てコース3-46ばかりです。一番奥からパラパラめくってもやはり46しかありません。改札口に行き駅員に尋ねたところ、駅務室にはなく構内のラックを探してくれました。それでも見つからず、仕方なくもらうのをあきらめました。


3-45 小田原駅コース
小田原駅コース|小田急沿線自然ふれあい歩道|小田急電鉄
小田原は関東の西の玄関口に当たる要衝の地であり、また、温暖な気候と肥沃な足柄平野を控えていることもあって、早くからこの地方の中心地として発展してきました。特に15世紀末に北条氏が入城してから1590(天正18)年豊臣秀吉の小田原攻めに至るまでの約1世紀は、歴史の表舞台にも名前を残しました。江戸時代には、関東防御を担う譜代大名の城下町としてにぎわいを保ちました。北条時代の小田原城は土塁や空堀を主とする「総構えの平山城」と言われ、現在の城址周囲にある江戸時代の城郭と比べると広さは10倍以上あったといわれています。城址公園内の史跡や早川口遺構など、さまざまな場所で当時の小田原城の様子を確認することができます。城内に今も残るイヌマキやビャクシンなどの巨木は、先人達の盛衰をそっと見下ろしていたはずです。


コースマップ


9:53  小田原駅 東口からスタートします


小田原高等学校 発祥の地、東口を出たところにあります


小田原城三の丸元蔵跡


10:02  ①小田原城址公園 北入口

最初の築城は大森氏がこの地に進出した15世紀初頭といわれています。1495年に小田原北条氏の居城となってから次第に拡張され、秀吉の小田原攻め直前に最大規模に達しました。現在の天守閣は、1960年に復元されたものです。

小田原城は明治3年に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年(1923)の関東大震災によりことごとく崩れ落ちてしまいました。現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と総構の一部が、国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「城址公園」として整備され、昭和35年(1960)に天守閣が復興、次いで昭和46年(1971)には常盤木門、平成9年(1997)には銅門、平成21年(2009)には馬出門が復元されました。さらに小田原市では、貴重な文化的遺産である小田原城跡をより一層親しんでいただくとともに、長く後世に伝えていくことを目的として、本格的な史跡整備に取り組んでいます。
園内マップ

御用米曲輪


10:07  天守閣 

園内マップ・施設一覧-天守閣 | 小田原城【公式】
天守閣は、昭和35年に市制20周年記念事業として総工費8千万円をかけて復興された小田原市のシンボルです。3重4階の天守櫓に付櫓、渡櫓を付した複合式天守閣で、地上38.7m、鉄筋コンクリート造、延床面積1822m2となっています。なお、最上階の高欄付き廻縁は復興に際して新たに付けられたものです。内部には、甲冑・刀剣・絵図・古文書など、小田原の歴史を伝える資料や、武家文化にかかわる資料などが展示されています。標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができます。天守閣 一般510円  小・中学生200円


天守閣登城口から上がっていきます  入館料510円

館内は5階建てになっています


全国「天守」高さ比べTOP10
No1 大阪城 41.5m、No2 名古屋城 36.1m、No3 島原城 33.0m、No4 熊本城 32.5m
No5 姫路城 31.5m、No6 小倉城 28.7m、No7 小田原城 27.2m、No8 広島城 26.6m
No9 福山城 26.3m、No10若松城25.1m


小田原提灯

小田原提灯-小田原提灯の歴史と沿革 | 小田原市地場産業振興協議会
広く一般的な提灯は1085年に書かれた書物に出ていることから、古くから照明器具として使われていたようです。小田原提灯は、江戸時代中ごろ、小田原の甚左衛門という人が箱根越えの旅人のために考案して売ったものが起源。上下の蓋が大雄山最乗寺の霊木で作られているので、道中の魔除けになるといわれています。また折りたたむと懐中に入るので懐提灯ともいわれ、携帯に便利。本体の胴部蛇腹部分に使われている竹ひごが四角形に削られているので糊付け面が多く、雨や霧にあたっても剥げにくく丈夫。これら三つの特長は「三徳」と言われています。


天守閣からの眺め、西側
白銀山                二子山         駒ヶ岳 神山 冠ヶ岳     明星ヶ岳                   明神ヶ岳
   ↓                           ↓                  ↓         ↓  ↓                     ↓                              ↓


天守閣からの眺め、南側
   相模湾            伊豆大島                          真鶴半島                                 伊豆半島
        ↓                      ↓                                        ↓                                             ↓


天守閣からの眺め、北側
                                     檜洞丸    蛭ヶ岳 塔ノ岳   三ノ塔       大山
                                          ↓            ↓          ↓             ↓              ↓



10:35  天守閣を出てきました


郷土文化館は新型コロナウィルス感染症の感染拡大防止のため、
3月4日(水)から3月15日(日)まで【臨時休館】でした
小田原市 | 郷土文化館
郷土の歴史と自然、文化を、広く市民の皆さんにお伝えし、さらに次代の人々に継承する施設として、小田原市郷土文化館が設置されています。郷土文化館では、市内に存在する豊富な郷土にある資料を収集し、その保管・保存を図るとともに、資料の展示公開や調査研究、普及活動等を通じて、小田原の市民文化の向上に努めています。


10:40  ②お堀の今昔 

石垣、土塁、掘りで分断された平坦面を「曲輪(くるわ)」と呼びます。「掘り」は、現在のように水は張られておらず、渡渉を阻む泥田状態に保たれていたといわれています。現在では、オオガハスが植栽されており、夏季にはピンクの花を咲かせます。


10:40  ③御感(ぎょかん)の藤 

南掘沿いに、樹齢100年以上の古木のフジが植えられており、藤棚全体に1m余りの花房が下がる姿は目を引き壮観です。大正天皇を感銘させたことから「御感の藤」と呼ばれ、市の天然記念物になっています。


10:45  ④曲輪(くるわ)と堀 
報徳二宮神社は、二つの堀に両側から囲まれた細長い平垣地である雷曲輪(かみなりぐるわ)に鎮座しています。雷曲輪には小田原城の火薬庫があったといわれ、神社の拝殿に向かって右手奥には北条時代の障子堀りの一部を残しています。


10:45  ⑤報徳二宮神社 

報徳二宮神社は、二宮金次郎(尊徳)(1787~1856年)を祭神として1894年に創建されました。二宮金次郎は小田原市栢山出身の篤農家で、災害で没落した家を立て直した経験を基に殖産を説いて、多くの町や村を復興させるなど多くの業績を残しています。
報徳二宮神社 神奈川県小田原城内
明治27年(1894)4月、二宮尊徳翁の教えを慕う6カ国(伊豆、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、翁を御祭神として、生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峰曲輪の一角に神社が創建されました。明治42年本殿・幣殿を新築、拝殿を改築し、神宛を拡張し現在の社地の景観をを整えました。平成6年(1994)には創建百年記念奉告祭を斎行して今日に至っています。


ここで寄り道です
外郎(ういろう)のお店に向います


三の丸小学校、塀も校舎もお城風です


小田原のお菓子 観光の際のお土産に|ういろう
10:50  本物のお城のようなお菓子屋さんです、外郎(ういろう)博物館もあります

コースに戻ります


11:05  報徳博物館、二宮尊徳修学の地


清閑亭周辺の縄文時代の遺跡


11:08  国際医療福祉大学の前を通ります


てんじんやま


11:12  ⑥天神社 

土地の人から「天神さん」として親しまれている神社です。ここには、古くから三光寺という真言宗の寺院があり、一時衰えていたものを、1561年に僧秀山が天神社の別当寺として再興したと伝えられています。
神奈川県神社庁/神社検索/天神社
土地の人から「天神さん」と呼ばれ、親しまれている天神社は、名前の通り「菅原道真」を祭神とした神社で、創業時代は古く不明である。この地には古くから威徳山長教院三光寺と号す古義真言宗の寺院があって、一時衰えていたものを後北條時代の永禄四年(一五六一)、僧秀山によって、天神社の別当寺として中興されたといわれ、その後、再び衰え廃寺となってしまった。

【山角天神社 小田原】通りゃんせの歌の発祥の地。瓜生大将の銅像も
山角天神社は、童謡『通りゃんせ』の発祥の地と言われている神社で、境内には、歌の碑が置かれています。


芭蕉の句碑


瓜生海軍大将之像

瓜生外吉(1857-1937年)は、米アナポリス海軍兵学校を卒業。日露戦争(1904-1905年)の仁川沖、蔚山沖、日本海の各海戦で活躍し、1912年に海軍大将に昇進しました。後年は、婦人繁子(日本初の女子留学生)とともに対米民間外交、親善に尽力しました。ここから西に200mほどの高台に別荘を設けた外吉は、誠実な人柄が市民に敬愛され、海を眺めての小田原の生活をこよなう愛しました。

地元の人々から「天神さん」と親しまれている山角天神社は、菅原道真を祭神とする神社で、毎年1、5、9月に例大祭が開かれます。山角天神社の創建年代は古く不明です。別当威光山長教院三光寺がありましたが、明治初年廃寺になりました。ご神体は木造で、高さ32cm、台座6cm。裏に、「永禄4年極月吉日」とあります。山角天神社には、北条氏康が奉納したという別当三光寺の什宝「藤原道真画像」があり、画像には、俗にいう「いかり天神」の姿です。また、境内には、紀軽人狂歌碑、芭蕉句碑、瓜生海軍大将之像があります。


山角天神社 参道


11:19  国道1号線 早川口


11:24  ⑦玉伝寺 

玉伝寺は別名三宝院とも言い、北条時代の1522年に今の早川口付近に建立され、江戸初期の1637年に再興建された後、現在地に移築されました。本山身延山守護の七面大明神像を寺宝として祭っています。
玉伝寺。小田原市城山にある法華宗系単立寺院
法華宗系単立寺院の玉伝寺は、光浄山三寳院と号します。玉伝寺は、外郎鐵丸(ういろう)の祖宇野藤右衛門定治が開基となり、身延山十三世寳聚院日傳が大永2年(1522)に起立、宝永4年早川口から当地へ移転したといいます。
玉伝寺境内にある稲荷神社


あわて床屋「赤い鳥」大正八年四月号発表:「白秋童謡の散歩道」


11:32  ⑧居神(いがみ)神社 

小田原城の西側の大外郭に位置している神社です。後北条氏時代の小田原古水道がこの神社の麓を通り、昭和初期まで活用されていましたが、今は東海道の下を流れ、山王川から相模湾に注ぐ排水施設として機能しています。

居神神社。小田原市城山の神社
居神神社は、北条早雲との戦いに敗れた三浦半島新井城主三浦荒次郎義意が永正15年(1518)に自刃、その首が井神の森の古松にかぶりつき、そのまま3年間通行人をにらみつけ、これを久野総世寺四世忠室存孝和尚が成仏させて祀ったといいます。江戸期には山角町・板橋村の鎮守社だったといい、明治43年大窪村板橋浅間神社、同村同字秋葉神社を合併したといいます。


11:37  ⑨大久寺 

江戸時代の小田原藩初代藩主大久保忠世を開基とする、大久保家の菩提寺です。忠世の墓石は法華五輪塔の代表的なもので、損傷もなく文化財としても優れたものです。その並びに2代・忠隣や一族の墓石があり、これらは合唱型宝塔と呼ばれ非常に珍しく、小田原市の文化財史跡に指定されています。

小田原市 | 大久寺
大久寺は、小田原城主大久保忠世を開基とする寺で、大久保家の菩提寺です。大久保家の当主は、初期には大久寺に葬られましたが、中期以降は主として江戸青山の教学院(現在は、世田谷区太子堂に移転)に葬られていました。初代・忠世の墓石は法華五輪塔の代表的なもので損傷もなく立派なものです。2代忠隣など7基の墓石が並んでいます。


11:44  ⑩早川口遺構 

早川口遺構は、小田原城大外郭の南に位置する虎口(出入口)です。数個の虎口や二重構造の土塁、堀などで防御する構造になっています。1978年に国の史跡に指定され、現在は史跡公園として整備されています。

小田原市 | 総構の遺構
早川口遺構は、二重外張と呼ばれる土塁と堀を二重に配した構造となっていることから、この付近に出入口である虎口があったと考えられています。この遺構は、小田原城総構の南西に位置し、低地部で見ることのできる数少ない土塁跡のひとつです。


11:54  ⑪西海子(さいかち)小路 

西海子小路は武家屋敷が集まっていた小路で、広い敷地の邸宅が並ぶ静かな佇まいが往時をしのばせます。西海子小路の西の突き当たりには、芥川龍之介の「トロッコ」の舞台となった軽便鉄道の起点がありました。


りすりす小栗鼠、雨「赤い鳥」大正七年七月号発表:「白秋童謡の散歩道」


アメフリ「赤い鳥」大正十四年十一月号発表:「白秋童謡の散歩道」


11:59  小田原市 | 西海子小路と文学館
 3月4日~24日新型コロナウイルス感染症拡大のため臨時休館

西海子小路の名は、この地にサイカチの木が植えられていたためといわれています。
この地名は、小田原藩主稲葉氏の「永代日記(承応2年(1853))」の記載に見られます。江戸時代の後期には、中堅藩士の武家屋敷地となり、江戸時代末期には、17軒ほどが道の両側に並んでいました。


西海子小路 周辺案内図


12:04  大蓮寺


12:07  蓮昌寺 


12:09  ⑫正恩寺(しょうおんじ) 

1593年に尾張から当地に移転した正恩寺では、木造・入母屋造瓦ぶきの鐘楼門が小ぶりながら優雅な姿を見せています。砂地で農耕地には適さないため、寺が連らなる独特の街並みが形成されたといわれています。

小田原市 | 建造物・正恩寺の鐘楼門
正恩寺は、浄土真宗大谷派東本願寺の末寺です。この鐘楼門は、正面に掲げられた「法性山」という山号を記した扁額の裏に、「寛政五年丑九月二十一日、大工牧岡藤左衛門・西田平七・松野作右衛門」と記されていることから、寛政5年(1793)に、3人の小田原の大工によって建てられたことがわかります。


砂浜に出ました


12:17  ⑬御幸(みゆき)の浜海岸 
中央左に伊豆大島、中央右に真鶴半島、右に伊豆半島が見えます

以前は小田原海岸、袖が浜と呼ばれていましたが、1873年の明治天皇・皇后の行幸(ぎょうこう)以降、御幸の浜と呼ばれるようになりました。海岸からの景色は素晴らしく、伊豆半島や三浦・房総半島を一望に見渡すことができます。

小田原市 | 御幸の浜
御幸の浜は、明治6年(1873)、明治天皇と皇后がおそろいで、当海浜において、漁夫の地引網をご覧になり、以来、「御幸の浜」と呼ばれるようになりました。御幸の浜海岸は、景色が良く、伊豆半島や三浦・房総半島も見渡せ、海辺の散策などが楽しめます。


12:25  西湘バイパスのこのトンネルをくぐります


12:28  徳常院


12:33  ⑭松原神社 

1145~1151年に創建された旧小田原町の鎮守で、小田原はこの松原神社を核として発展してきたともいわれ、例祭は市内最大です。山車で奏する小田原ばやしは、神奈川県無形文化財に指定されています。

松原神社。小田原市本町の神社、旧足柄県の県社
松原神社の創建年代は不詳ですが、久安年間(1145-1150)に創建、鶴の森明神と称していたといいます。後北条氏よりの尊崇厚く社領1万石を拝領、天文年間(1532-1555)には山王原村松原の海中より出現した十一面観音を本地佛として祀ったことから神号を松原大明神と称したといいます。江戸時代には小田原19宿の総鎮守となっており、明治2年松原神社と改称、明治6年には足柄県の県社に列格していたといいます。


12:42  ⑮大手門跡と鐘楼 

小田原城の大手門は幸田口、箱根口とともに重要な虎口(出入口)の一つでした。その跡に建てられた鐘楼は、元々旧三の丸堀に300年ほど前からあったものらしく、関東大地震や太平洋戦争など歴史の荒波にもまれてきましたが、その都度修復され、今に至っています。

小田原市 | 大手門跡【国指定史跡】
江戸時代、三の丸には重臣の屋敷や藩の施設が置かれ、二の丸・御用米曲輪・南曲輪を大きく取り囲むように配置されていました。この三の丸には4つの出入り口が設けられており、そのうち、東の大手口、北の幸田口、南の箱根口は、堅牢な石垣で固めた桝形門となっていました。江戸時代初期の小田原城の大手口は箱根口でしたが、稲葉氏の時代に江戸に向く現在の場所に移されています。大手門跡の石垣の上には、大正時代に移設された時の鐘があり(現在の鐘は昭和28年製)、午前6時と午後6時に鐘を打ち、市民に時を知らせています。


12:46  小田原城正規登城ルート 大手登城口


史跡小田原城跡馬出門枡形


馬出門 土橋の上から


12:48  馬出門 

園内マップ・施設一覧-馬出門 | 小田原城【公式】
馬出門は二の丸正面に位置する門で、馬出門、内冠木門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造を持ちます。馬屋曲輪へ通ずることからこの名が付いたとみられます(平成21年復元)。


小田原城案合図


12:49  銅門入口 


12:51  銅門(あかがねもん)

園内マップ・施設一覧-銅門 | 小田原城【公式】
馬屋曲輪(うまやくるわ)から二の丸に通じる位置にあり、二の丸の正門にあたります。渡櫓門(わたりやぐらもん)、内仕切門(うちじきりもん)と土塀で周囲を囲む枡形門(ますがたもん)の構造を持ちます。渡櫓門にはその名の由来となった銅板の装飾が映えます(平成9年復元)。


銅門(あかがねもん)土塀模型


12:53  NINJYA館 


12:53  ⑯イヌマキの大径木 

常磐木橋前には、小田原市最大のイヌマキの巨木があります。この木は幹周り4.5m、高さ20m、枝張り25mもあり、城内で最も樹齢が高く、小田原城の歴史を見つめ続けてきた歴史の生き証人といえます。

小田原市 | 天然記念物 ・小田原城跡のイヌマキ
この木は、常盤木橋の前にあり、幹回り4.5mに及ぶ小田原市内最大の巨木で、公園を訪れる人々が一様に目を見張るような見事な木です。左巻きにねじれた主幹は、地上5mのところで四つに分かれ、順次枝葉を伸ばし樹冠を形作っています。以前は四方へ密に枝を広げ、傘状の見事な姿をしていましたが、台風のため北側の大枝が折損し、支幹の一部があらわになって現在の姿になってしまいました。しかし、小田原城跡内にある大木の内、このイヌマキの右に出るものはありません。


本丸東堀跡



12:58  常盤木門(ときわぎもん)

園内マップ・施設一覧-常盤木門 | 小田原城【公式】
小田原城本丸には常盤木門、鉄門の2つの城門がありました。このうち常盤木門は本丸の正門にあたり、重要な防御拠点であったために、他の門と比べても大きく、堅固に造られていました。多聞櫓と渡櫓門を配し、多聞櫓は武器等の貯蔵庫として用いられていました。現在の常盤木門は、市制30周年事業として再建したもので、昭和46年(1971年)3月に完成しました。


中にいるのは猿です


13:08  


13:14  小田原駅 東口、ゴールしました


3-45 海沿いの小径に城下町の自然と歴史を訪ねて コースタイム

経由地・日付・天気 距離 累計 総h 所要h 見学h 着t 発t
小田原駅東口 0m  0:00    9:53
①小田原城址公園  0:40  0:09  0:31  10:02  10:33
②お堀の今昔  0:47  0:07  0:00  10:40  10:40
③御感(ぎょかん)の藤  1100m 1100m  0:47  0:00  0:00  10:40  10:40
④曲輪(くるわ)と堀  0:49  0:02  0:00  10:42  10:42
⑤報徳二宮神社  1:10  0:03  0:18  10:45  11:03
⑥天神社    460m 1560m  1:23  0:09  0:04  11:12  11:16
⑦玉伝寺  1:35  0:08  0:04  11:24  11:28
⑧居神(いがみ)神社    440m 2000m  1:40  0:04  0:01  11:32  11:33
⑨大久寺  1:45  0:04  0:01  11:37  11:38
⑩早川口遺構    530m 2530m  1:51  0:06  0:00  11:44  11:44
⑪西海子(さいかち)小路  2:01  0:10  0:00  11:54  11:54
⑫正恩寺(しょうおんじ)  2:17  0:15  0:01  12:09  12:10
⑬御幸(みゆき)の浜海岸  1170m 3700m  2:27  0:07  0:03  12:17  12:20
⑭松原神社  2:44  0:13  0:04  12:33  12:37
⑮大手門跡と鐘楼    820m 4520m  2:51  0:05  0:02  12:42  12:44
⑯イヌマキの大径木  3:03  0:09  0:03  12:53  12:56 
小田原駅東口  1260m  5780m  3:21  0:18  13:14 
コース3-46へ
2020/3/12(木) 晴  5780m  3:21   2:09  1:12


3-45 小田原駅コース の感想
このコースは見所ポイントが多く、時間がかかることを覚悟して出かけました。
小田原城は車窓から見たことはありますが、中へ入るのは初めてです。新型コロナウィルス感染症の影響で、小田原城址公園が閉鎖になっていないか心配しました。事前にネットで調べたところ、郷土文化館とNINJYA館 は休館となっていますが、天守閣には上れるとのことです。天気が良いこともあって、結構人が出ていました。
天神社は童謡「通りゃんせ」の歌詞に出てくる「ここはどこの細道じゃ、天神さまの細道じゃ」の天神さまだそうです。ところがどこかで同じような話があったと思い、調べてみました。そうです川越の三芳野神社に行ったときに同じ話がありました、
<参考>とおりゃんせ 歌詞の意味・解釈 /三芳野神社 川越市
三芳野神社は、川越城の鎮守として寛永元年(1624)、後の城主酒井忠勝によって再建されたといわれています。この天神様は、わらべ唄「とおりゃんせ」発祥の地といわれています。川越城内にあったため、一般の人の参詣はなかなか難しく、その様子が歌われていると伝えられています。
そのほか小田原国府津の菅原神社にも碑があるようです。はたしてどちらが本当なのでしょうか。同様の話は他にもいろいろありますね。


以上です。
                                   前のコース3-44 ⇦   45   ⇨ 次のコース 3-46
                                               足柄駅~足柄駅                          小田原駅~箱根板橋駅