mesetaのブログ

ウォーキングとフラメンコ
Walking,Flamenco&Guitar
Caminante,Flamenco y Guitarra

昭和九年発行 邦樂 ビクターレコード 總目録 -11(作詞・作曲者及演奏者小傳-1)

昭和九年発行に発行された「邦樂 ビクターレコード 總目録」です。
何回かに分けて内容を紹介しています。
第11回目は 作詞・作曲者及演奏者小傳-1 です。


全部で58名が掲載されていますが、前半ではそのうちの37名です。


作曲者及演奏者小傳  目次

作曲者及演奏者小傳
市丸  今井慶松  橋本國彦  堀内敬三

市丸 - Wikipedia
市丸・江戸小歌市丸(いちまる・えどこうた いちまる、1906年7月16日 - 1997年2月17日)は、昭和期の芸者歌手。本名は後藤 まつゑ(ごとう まつえ)。江戸小歌中村派17世家元。長野県松本市生まれ。16歳のとき、松本市の奥座敷として知られる浅間温泉で半玉(芸者見習い)となる。客に求められた長唄を知らず悔しい思いをしたことがきっかけとなり、単身19歳で上京。大正15年(1926年)6月18日、浅草の一松家から芸者お披露目し、清元・長唄・小唄それぞれで名取となるまでの精進を重ねた。浅草四人組(児雀、久松、大黒、市丸)の一人として名を馳せ、その天賦の美貌と美声を買われて忽ち人気芸者となり、最盛期には一晩に10数件のお座敷を掛け持ちすることもあった。のち、分一松家の分看板を得て独立。
市丸   伊那節
長野県民謡, 長野県民謡, 市丸[三味線] (ビクター, 商品番号 : 52586, 1933-02)

伊那節 市丸/長野県民謡【日本民謡 レコード】


今井慶松 - Wikipedia
今井 慶松(いまい けいしょう、1871年5月14日(明治4年3月25日) - 1947年(昭和22年)7月21日)は、日本の箏曲家、帝国芸術院会員。箏曲家の中能島慶子は娘。相模国(現神奈川県)出身。本名は新太郎。4歳で失明。山田流箏曲の3代山勢松韻に師事。1902年東京音楽学校(現東京芸術大学)教授。1940年日本三曲協会初代会長。1942年芸術院会員。「新晒」などの演奏で知られる。作品に「四季の調」など。
今井 慶松   箏曲 黒髪  ビクターで聞くことができるレコードはありませんでした
今井 慶松 (ニッポノホン, 商品番号 : 17787, 1931-05)

黒髪 今井慶松【箏曲 レコード】


橋本國彦 - Wikipedia
橋本 國彦(はしもと くにひこ、Qunihico Hashimoto、1904年9月14日 - 1949年5月6日)は、日本の作曲家、ヴァイオリニスト、指揮者、音楽教育者。東京都本郷生まれ。ヴァイオリンを辻吉之助に師事。北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)を経て、1923年(大正12年)東京音楽学校(現・東京芸術大学)入学。安藤幸とヨゼフ・ケーニヒにヴァイオリンを、チャーレス・ラウトロプに指揮法を学ぶ[2]。作曲は信時潔に指導を受けるもほとんど独学であったが、同校研究科で作曲を学ぶ。歌曲『お菓子と娘』『黴』などで作曲家としての名声を獲得。斬新な曲を作る一方ではポピュラーなCM曲や歌謡曲にも手を染めた。なお、この頃ヴァイオリンを教えた弟子に朝比奈隆がいる。
橋本 国彦[作曲]   城ケ島の雨   北原 白秋[作詞], 橋本 国彦[作曲], 斉田 愛子[アルト], 多部 三郎[ピアノ], 岡村 雅雄[フルート] (ビクター, 商品番号 : 13456, 1935-12)
城ケ島の雨 - 歴史的音源


堀内敬三 - Wikipedia
堀内 敬三(ほりうち けいぞう、1897年(明治30年)12月6日 - 1983年(昭和58年)10月12日) は、日本の作曲家、作詞家、訳詞家、音楽評論家。「あやしいぞ」をもじった安谷 鎮雄という筆名もある。「浅田飴」オーナーの堀内伊太郎の三男として東京市神田区鍛冶町7番地で生まれる(ただし浅田飴本舗の相続権は34歳、日本大学芸術学部講師になった年に放棄)。1926年(大正15年)、野村光一の依頼で作詞作曲した「若き血」(慶應義塾大学応援歌)のヒットにより音楽の道に進むことを父に許され、同年からNHK洋楽主任となる。
堀内 敬三   オリンピック  堀内 敬三[作詞], 堀内 敬三[作曲], 日本ビクター男声合唱団[合唱], 日本ビクター管絃楽団[伴奏] (ビクター, 商品番号 : 52308, 1932-04)

オリンピック(日本ビクター男聲合唱団)


堀内敬三 のつづき
本多 信子  豊竹 つばめ太夫 

本多 信子  赤い靴
野口 雨情[作詞], 本居 長世[作曲], 本多 信子, マンドリン・オーケストラ (ビクター, 商品番号 : 52348, 1932-07)

Sabra Presents: Whirled Peas, Time & Taïm Again with Chef Jet Tila


豊竹 つばめ太夫  義太夫「寺子屋」

Rich Brian - BALI ft. Guapdad 4000 (Lyric Video)
竹田 出雲 他[作詞], (初代)鶴澤 友次郎[作曲], 豊竹 つばめ太夫 (二代目), 野沢 勝市[三味線] (ビクター, 商品番号 : 50764, 1929-06)


豊竹つばめ太夫 つづき
豊竹 古靭太夫、徳山 璉、常磐津 松尾太夫

豊竹古靱太夫 - Wikipedia
二代目 豊竹 古靱太夫(とよたけ こうつぼだゆう)、豊竹山城少掾の前名。
豊竹 山城少掾(とよたけ やましろの しょうじょう、1878年(明治11年)12月15日 - 1967年(昭和42年)4月22日)は明治・大正・昭和の三代にわたって活躍した義太夫節大夫。近代屈指の名人として知られ、義太夫節・人形浄瑠璃に大きな足跡を残した。本名は金杉 彌太郎(かねすぎ やたろう)。1909年に二代目豊竹古靱太夫襲名。このころから若手の有望株として認められ、竹本摂津大掾や相三味線三代目鶴澤清六などについて積極的に学ぶ。



徳山たまき - Wikipedia
徳山 璉(とくやま たまき、1903年〈明治36年〉7月27日 - 1942年〈昭和17年〉1月28日)は、戦前から戦中に活躍した日本の声楽家(バリトン)・流行歌手・俳優。1903年(明治36年)7月27日、神奈川県高座郡藤沢町(現在の同県藤沢市)の開業医の家に生まれた。開校したばかりの逗子開成中学校(現在の逗子開成高等学校)を経て、1928年(昭和3年)、東京音楽学校声楽科(現在の東京芸術大学音楽学部声楽科)を卒業。武蔵野音楽学校(現在の武蔵野音楽大学)の教師になったが、流行歌手として日本で初めて大スターになった佐藤千夜子のピアノ伴奏をした縁で、1930年(昭和5年)、ビクターから『叩け太鼓』で流行歌手としてデビュー。翌年には『侍ニッポン』が大ヒットとなった。その後も『ルンペン節』や、四家文子と共演の『天国に結ぶ戀』など数多くのヒット曲に恵まれた。『隣組』、『歩くうた』など、国民歌謡からヒットした曲もある。
徳山 璉   夜の酒場に
西条 八十[作詞], 松平 信博[作曲], 松平 信博[編曲], 徳山 璉 (ビクター, 商品番号 : 52166, 1932-02)

徳山 璉 Tamaki Tokuyama - 夜の酒場に (1932)


常磐津松尾太夫 - Wikipedia
三世 常磐津 松尾太夫(ときわづ まつおたゆう)は、常磐津節の太夫の名跡。(1875年9月7日 - 1947年7月13日) 本名は福田兼吉。神奈川県逗子生まれ、6代目岸澤式佐の門下で常磐津小和登太夫から1900年に2代目常磐津三登勢太夫を襲名。1902年に2代目松尾太夫(常磐津林中)の門下。1906年に3代目松尾太夫を襲名。1911年に帝国劇場の専属、1930年には松竹専属。大正、昭和初期の名人で多くの曲を残す。妻は12代目守田勘彌の娘の6代目岸澤式佐の養女の岸澤むめ、義理の弟に7代目坂東三津五郎、13代目守田勘彌、3代目板東玉三郎、実子長男が常磐津三東勢太夫、次男が常磐津千東勢太夫、孫が4代目松尾太夫。


荻野 綾子、渡邊 はま子、加藤 しのぶ、勝太郎

荻野 綾子  せきれい 
北原白秋[作詞], 宮城道雄[作曲], 荻野綾子, 宮城 道雄[箏], 吉田晴風[尺八] (ビクター, 商品番号 : 13334, 1934-01)

荻野綾子 - せきれい Wagtail (Michio Miyagi) - 1933
まぼろしの歌姫(白銀のソプラノ)・荻野綾子 (1898 - 1944)
福岡藩、五百四十石の大武将の孫娘として生まれた。女学校時代、西南学院生みの親・ドージャー夫妻に音楽を学び、東京音楽学校(現東京藝大)声楽科に入学。卒業後、ただちに山田耕筰の抜擢を受け、やがてフランスに留学。日本人としてはじめてパリで日本の歌をうたってデビュー。帰国すると、日本へフランスの歌曲の数々をはじめて紹介した。


渡辺はま子 - Wikipedia
渡辺 はま子(わたなべ はまこ、1910年(明治43年)10月27日- 1999年(平成11年)12月31日)は戦前から戦後にかけて活躍した日本の流行歌手。神奈川県横浜市平沼出身。本名 加藤 濱子。生涯横浜で過ごした。1933年(昭和8年)「武蔵野音楽学校」(後の武蔵野音楽大学)卒業。立松ふさに師事。卒業後は、横浜高等女学校(後の横浜学園高等学校)で音楽教師をしていたが、同年にポリドールの歌手テストを受け、「最上川小唄」を吹き込むがポリドールでは結局この1曲のみで終わった。音楽学校在学中に指導を受けた徳山璉の推薦もあり、同年12月にビクターから「海鳴る空」でデビューした。
ビクター時代の渡辺 はま子の音源を探すことができませんでした。
渡辺 はま子   支那の夜
西條 八十[作詞], 竹岡 信幸[作曲], 奥山 貞吉[編曲], 渡辺 はま子 (コロムビア, 商品番号 : A93)


加藤 しのぶ 作曲家 東京帝大工学部卒
想い出のギター 佐伯 孝夫[作詞], 加藤 しのぶ[作曲], 加藤 しのぶ[編曲], 徳山 璉, 藤山 一郎, モアナ・グリー・クラブ (ビクター, 商品番号 : 52864, 1933-10)
泣きぼくろ 佐伯 孝夫[作詞], 加藤 しのぶ[作曲], 加藤 しのぶ[編曲], 小林 千代子, 日本ビクター・ジャズ・アンサンブル[伴奏] (ビクター, 商品番号 : 52849, 1933-10)
加藤 しのぶ作曲    さらば青春   佐伯 孝夫[作詞], 加藤 しのぶ[作曲], 加藤 しのぶ[編曲], 藤山 一郎, 日本ビクター管弦楽団[伴奏] (ビクター, 商品番号 : 53083, 1934-05)

さらば青春(藤山一郎)


小唄勝太郎 - Wikipedia
小唄 勝太郎(こうた かつたろう、1904年(明治37年)11月6日 - 1974年(昭和49年)6月21日)は日本の女性歌手。本名は眞野 かつ。旧姓は佐藤。芸者勝太郎として葭町・花街に籍を置く傍ら、『島の娘』で歌手デビューし[2]、いわゆる「ハァ小唄」の流行を作った。三島一声と歌った『東京音頭』の大ブームを受けて落籍し、小唄勝太郎と名乗って歌手業に専念した。赤坂小梅、市丸、音丸らとともに芸者歌手の一時代を形作ったひとり。1971年(昭和46年)に紫綬褒章を受章。
小唄 勝太郎   おけさ踊り
新潟県民謡, 新潟県民謡, 小唄 勝太郎 (ビクター, 商品番号 : V-40788, 1934-07)



おけさ踊り 小唄勝太郎 新潟県民謡【民謡 レコード】


四家 文子、六代目 芳村 伊十郎 

四家文子 - Wikipedia
四家 文子(よつや ふみこ、1906年(明治39年)1月20日 - 1981年(昭和56年)7月16日)は昭和期の歌手、声楽家。東京府出身。東京府立第三高等女学校の1学年上には女優の高島愛子がいた。東京音楽学校でネトケ=レーヴェに師事。首席で卒業後、「不壊の白珠」で歌手デビューする。
四家 文子 踊り子の唄
長田 幹彦[作詞], 中山 晋平[作曲], 四家 文子, マンドリンオーケストラ[ヴァイオリン・マンドリン伴奏] (ビクター, 商品番号 : 52451, 1932-08)

踊り子の唄 四家文子 歌/長田幹彦 作詞/中山晋平 作曲【流行歌 レコード】


芳村伊十郎 - Wikipedia
(安政5年12月17日(1859年1月20日) - 昭和10年(1935年)10月3日)本名は鵜沢徳蔵。駿河国藤枝の生まれで5代目富士田千蔵の元で修行し富士田千平。8歳で2代目杵屋彌吉に入門。1873年、16歳で上京し5代目芳村伊十郎(後の6代目伊三郎)の弟子となり3代目芳村金五郎。1884年に5代目芳村伊四郎を襲名。1890年に歌舞伎座で立唄に昇進。1893年に6代目伊十郎を襲名。1922年に8代目芳村伊三郎を襲名。
六代目 芳村 伊十郎  長唄 勧進帳 (是やこのより)
このレコードはカタログに載っていない大正時代に録音されたものです

長唄 勧進帳 (是やこのより) 六代目 芳村伊十郎 Nagauta "Kanjintyo" Ijuro-Yoshimura 6


六代目 芳村 伊十郎 のつづき
三世 吉田 奈良丸、吉田 晴風、高峰 筑風

吉田奈良丸 - Wikipedia
(1898年11月6日 - 1978年11月12日)本名は炭田 嘉一郎。浪曲の名跡。和歌山県海草郡生まれ、小学校の頃から天狗連で活躍。12歳で2代目に入門、最初は四つ目と名乗り、翌年に吉田松若、14歳で真打昇進し初代吉田一若と改名、1929年に奈良丸を襲名。師匠譲りの「義経堅田落ち~勧進帳」「安宅の関~勧進帳」などを得意とした。他に行友李風の「幻滅の忠治」や坪内博士の「桐一葉」等の新作もこなした。1970年6月に浅草国際劇場の浪曲大会で引退。
三世 吉田 奈良丸   勧進帳
吉田 奈良丸(三世) (ビクター, 商品番号 : 51669, 1931-05)

浪花節 勧進帳 (1)(2) 三世 吉田奈良丸


吉田 晴風(ヨシダ セイフウ)とは - コトバンク
大正・昭和期の尺八奏者,邦楽作曲家  生年明治24(1891)年8月5日  没年昭和25(1950)年6月30日  出身地熊本県  本名吉田 康次(ヨシダ ヤスジ)  学歴〔年〕熊本商業卒
経歴大正4年上京、尺八の鳥井若菜の内弟子となり、傍ら日本音楽学校で洋楽を学ぶ。6年箏曲の宮城道雄と共に洋楽の形式を取り入れた新日本音楽運動に活躍。のち晴風会を組織し、全国に尺八普及運動を展開した。作曲に「祈り」「かもめ」「子守唄」、著書に「晴風随筆」「琴と尺八」などがある。

吉田 晴風  六段
八橋 検校[作曲], 吉田 晴風[尺八], 吉田 恭子[箏] (ビクター, 商品番号 : 50320, 1928-05)

六段 八橋検校 作曲/吉田晴風 尺八/吉田恭子 筝【箏曲 レコード】


高峰筑風(たかみね ちくふう)とは - コトバンク
1879-1936 明治-昭和時代前期の琵琶(びわ)演奏家。明治12年5月2日生まれ。高峰三枝子の父。吉田竹子に筑前(ちくぜん)琵琶をまなび,大正元年に京都で高峰流琵琶を創始した。作曲に「小楠公」「日蓮上人」など。昭和11年4月21日死去。58歳。福岡県出身。福岡工業卒。本名は鈴木徹郎。
高峰 筑風    白虎隊
田村 虎蔵[作曲], 高峰 筑風 (ビクター, 商品番号 : 53290, 1934-12)

白虎隊 高峰筑風/田村虎蔵 作曲【琵琶 レコード】


高峰 筑風 のつづき
竹田 ふみ子、竹本 錣大夫、田母澤 ふみ子、中村 吉右衛門 

竹田 ふみ子    声楽家、明治38年5月25日鳥取市吉方町に生る 
女馬子唄 - 歴史的音源 
田中 銀之助[作曲], 竹田 文子, 日本ビクター・サロン・オーケストラ[伴奏] (ビクター, 商品番号 : 52706, 1933-06):国立国会図書館および歴史的音源配信提供参加館の館内でご利用いただけます。


五代目 竹本 錣大夫  浄瑠璃
名人のおもかげ 五世竹本錣太夫
五世竹本錣太夫は本名を井上市太郎といふ。明治九年三月 東京芝の金杉で指物師の職人の子として生れた。七才の頃から浄瑠璃の稽古をし、明治廿二年十四才で竹本識太夫(後の六世岡太夫)に入門して識子太夫と名乗る。後五世竹本錣太夫を襲名して寄席廻りをしたが、明治三十年廿二才の時来阪して 竹本大隅太夫の門に入る。(大隅太夫の歿後は伊達太夫の預り弟子となる。)明治三十二年一月の明楽座で「千本桜」の大序を語ったのが人形浄瑠璃の舞台に出た初めである。中一年程御霊文楽座へ出勤したこともあるが、堀江座、近松座と彦六系の芝居に出勤した。大正三年二月、師匠の伊達太夫と共に文楽座へ入座。津太夫、古靱太夫、土佐太夫の所謂三巨頭時代に、駒太夫、源太夫と共に第二陣を形づくり、昭和初年の旺盛期に活躍した。昭和十五年四月が最後の舞台となって、同年十二月六十五才で歿した。

五世竹本錣太夫  桜鍔恨鮫鞘(鰻谷の段)
竹本 錣太夫, 豊沢 新左衛門[三味線] (ビクター, 商品番号 : 53389, 1935-04)

桜鍔恨鮫鞘(鰻谷の段)(一) - 歴史的音源


田母澤 ふみ子   故郷とおし
西条 八十[作詞], 林 純平[作曲], 林 純平[編曲], 田母沢 ふみ子 (ビクター, 商品番号 : 52694, 1933-05)

故郷とほし(田母澤ふみ子) クニトオシ


中村吉右衛門 (初代) - Wikipedia
初代 中村 吉右衛門(しょだい なかむら きちえもん、1886年(明治19年)3月24日 - 1954年(昭和29年)9月5日)は、明治末から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は播磨屋。定紋は揚羽蝶、替紋は村山片喰。大向うからの「大播磨」(おおはりま)の掛け声で知られた。東京浅草象潟町(浅草寺の裏手)生まれ。三代目中村歌六の次男で、本名、波野辰次郎。弟に三代目中村時蔵、十七代目中村勘三郎、娘婿に初代松本白鸚がいる。
中村 吉右衛門    歌舞伎劇;河内山宗俊
河竹 黙阿弥[作詞], 中村 吉右衛門, 中村 吉之丞 (ニッポノホン, 商品番号 : 15808~9, 1925-07)
歌舞伎劇;河内山宗俊(一) - 歴史的音源


中村 吉右衛門 のつづき
中山 梶子、中山 晋平、村田 文三 

中山 梶子 (中山 晋平の子)  上り目下り目
水谷 まさる[作詞], 中山 晋平[作曲], 平山 美代子, 中山 梶子, 日本ビクター・アンサンブル[伴奏] (ビクター, 商品番号 : J-30006, 1935-04)

童謡「上り目下り目」(平山美代子・中山梶子)


中山晋平 - Wikipedia
(なかやま しんぺい、1887年(明治20年)3月22日 - 1952年(昭和27年)12月30日)は、日本の作曲家。多くの傑作といわれる童謡・流行歌・新民謡などを残した。作品は多岐にわたり、校歌や社歌等を含め中山の作品と判明しているものだけで1770曲存在する。長野県下高井郡新野村(現・中野市)に生まれる。生家は名主、村長を出した旧家であったが父親の急死により落魄し、養蚕をする母親に女手一つで育てられ、長野師範学校講習科を修了後、1903年(明治36年)尋常高等小学校の代用教員となる。唱歌が好きで生徒からも唱歌先生と呼ばれた。


村田文三(むらた ぶんぞう)とは - コトバンク
1882-1956 大正-昭和時代の民謡歌手。明治15年1月1日生まれ。三菱佐渡鉱山につとめる。大正13年民謡団体立浪会の創立とともに入会。「佐渡おけさ」「相川音頭」を全国に紹介した。昭和30年全国民謡舞踊コンクールで優勝。昭和31年8月10日死去。74歳。新潟県出身。
村田 文三  相川音頭   (ビクター, 商品番号 : 51425, 1930-10)

相川音頭(村田文三)


村田 文三 つづき
歌澤 寅右衛門、歌澤 相模、井崎 嘉代子、野口 雨情

歌沢寅右衛門 (うた沢) - Wikipedia
(うたさわ とらえもん)は、うた沢節のうた沢寅派の名跡。初代と2代目は「歌沢虎右衛門」と漢字表記しそれ以降は女性が名乗ったため「歌沢寅右衛門」と表記した。
五世 歌澤 寅右衛門
5代目(明治34年(1901年4月10日) - 昭和58年(1983年12月19日))本名は平田秀子。東京の生まれ、4代目の長女。若い頃から母の元で修行し寅秀の名で活動、昭和2年(1927年)に5代目寅右衛門を襲名。実子は6代目。
歌澤 相模  五世 歌澤 寅右衛門 の母、四世 歌澤 寅右衛門、
歌沢寅右衛門4代目(明治5年(1872年8月5日) - 昭和18年(1943年3月7日))本名は平田ゆき。東京の生まれ、初代の孫で3代目実子。明治38年(1905年)に4代目寅右衛門を襲名。漢字表記を「虎右衛門」から「寅右衛門」とした。昭和2年(1927年)に長女に「寅右衛門」の名を譲り隠居し2代目歌沢相模を名乗る。
うた沢(うたざわ)とは - コトバンク
日本音楽の種目名。三味線声曲の一つで,寅派と芝派の2派があり,前者を「歌沢」,後者を「哥沢」と書く。江戸時代後半に流行した端唄を趣味とする人々の間から,旗本笹本忠良の長男笹本彦太郎が安政4 (1857) 年に歌沢大和大掾という受領名を許されて創始したもの。彦太郎はのちに歌沢笹丸と名のり,後継者の代に畳屋平田虎右衛門が寅派を,柴田金吉が芝派を興した。うた沢は小編歌曲だが,端唄,小唄に比べてテンポが遅く,小唄の倍以上の時間がかかる。三味線伴奏の室内歌曲で,江戸末期の通人趣味をよく表わしている。端唄,小唄と共通の詞章が多い。代表曲は『淀の川瀬』『露は尾花』『白酒』など。出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典


二世 歌澤 相模(唄)、五世 歌澤 寅右衛門(三味線)  梅が香
歌沢 相模(二代目), 歌沢 寅右衛門[三味線] (ビクター, 商品番号 : 52910, 1933-12)
梅が香 - 歴史的音源


井崎 嘉代子   声楽家、横浜市生まれ
流浪の民(Zigeunerleben)
Robert Schumann[作曲], 橋本 国彦[編曲], 井崎 嘉代[唄], 四家 文子[唄], 藤山 一郎[唄], 徳山 璉[唄] (ビクター, 商品番号 : 52931, 1933-11)

流浪の民 Zigeunerleben (Schumann) - 井崎嘉代子, 四家文子, 藤山一郎, 徳山璉 (1933)


野口雨情 - Wikipedia
(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月29日 - 1945年(昭和20年)1月27日)は、詩人、童謡・民謡作詞家。多くの名作を残し、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた。廻船問屋を営む名家(楠木正季が先祖と伝えられているが不明)の長男として茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)に生まれる。父・量平、母・てる。4年制小学校・4年制高等小学校を終了後上京。東京専門学校(現・早稲田大学)に入学し、坪内逍遥に師事するが、1年余りで中退、詩作を始める。このとき1901年、英吉19歳。
野口雨情 作詞  波浮の港  佐藤千夜子 歌  野口 雨情[作詞], 中山 晋平[作曲], 佐藤 千夜子, 中山 晋平[ピアノ伴奏] (ビクター, 商品番号 : 50313, 1928-05)

佐藤千夜子 Chiyako Sato_「 波浮の港」 on HMV-101 gramophone


野口 雨情 つづき
尾上菊五郎、長田 幹彦、町田 嘉章

尾上菊五郎 (6代目) - Wikipedia
六代目 尾上 菊五郎(おのえ きくごろう、1885年(明治18年)8月26日 - 1949年(昭和24年)7月10日)は大正・昭和時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。俳名に三朝がある。本名は寺島 幸三(てらしま こうぞう)。五代目尾上菊五郎の長男。実弟に六代目坂東彦三郎、義兄に六代目尾上梅幸がいる。
六代目 尾上菊五郎 「春興鏡獅子」1935

1935 Kabuki / with Kikugoro Onoe


長田幹彦 - Wikipedia
(ながた みきひこ、1887年(明治20年)3月1日 - 1964年(昭和39年)5月6日[2])は、日本の小説家、作詞家。1887年、東京府麹町区飯田町に生まれる。兄は劇作家の長田秀雄[3]。1904年(明治37年)3月に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属高等学校)を卒業する。・・1912年(明治45年)に早稲田大学英文科を卒業する。・・昭和に入ると日本ビクター顧問として専属の作詞家となり、「祇園小唄」「島の娘」「天竜下れば」などの多数の作詞を手掛けた。
長田 幹彦 作詞    祇園小唄
長田 幹彦[作詞], 佐々 紅華[作曲], 佐々 紅華[編曲], 藤本 二三吉 (ビクター, 商品番号 : V40095, 1930-01)
祇園小唄 - 歴史的音源


町田 嘉章
町田佳声 - Wikipedia
町田 佳聲(まちだ かしょう、1888年6月8日 - 1981年9月19日)は、日本の音楽評論家。本名・町田嘉章(まちだ よしあき)。町田博三とも名乗る。群馬県伊勢崎生まれ。本名の音読みの「かしょう」から1963年「佳聲」を名乗り、略字「声」を嫌った。東京美術学校卒業。「時事新報」「中外商業新報」の記者を経て、古典邦楽を研究し、新日本邦楽運動に参加、1931年「春信幻想曲」「ちゃっきり節」なども作曲した。戦前は三味線の演奏家としても活動し、三味線と西洋管弦楽のための協奏曲を2曲作曲している。新交響楽団(現・NHK交響楽団)と共演した自演の音源がCD化されている。
町田 嘉章[作曲]  茶切節, 市丸, 日本ビクター和洋合奏団 (ビクター, 商品番号 : 51818, 1931-06):国立国会図書館および歴史的音源配信提供参加館の館内でご利用いただけます。


町田 嘉章 つづき
松平 信博、松平 里子、筆 香

松平信博 - Wikipedia
(まつだいら のぶひろ、1889年(明治22年)3月26日 - 1949年(昭和24年)12月12日)は、日本の作曲家。松平郷松平家第20代当主であり、西條八十が作詞した流行歌『侍ニッポン』(徳山璉、1931年)の作曲で知られ、「殿様作曲家」と呼ばれた。代表曲は同曲のほか、『天国に結ぶ恋』(徳山璉・四家文子、作詞柳水巴、1932年)、『旅は青空』(渡辺光子、作詞野口雨情、同年)等。作曲時に林 純平(はやし じゅんぺい)とも名乗った。1889年(明治22年)、当時浦和地方裁判所の判事であった父信英の元、浦和で生まれる。旧制・東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)器楽科を卒業する。
松平 信博 作曲   浅草小唄  モダン・アサクサ
長田 幹彦[作詞], 松平 信博[作曲], 松平 信博[編曲], 四家 文子, 日本ビクター管弦楽団[伴奏] (ビクター, 商品番号 : 51854, 1931-09)
浅草小唄(一) モダン・アサクサ - 歴史的音源


松平里子 (歌手) - Wikipedia
(まつだいら さとこ、1896年(明治29年)7月31日 - 1931年(昭和6年)9月22日)は大正~昭和期のソプラノ歌手。本名:松平 佐登子(旧姓:岩田)。東京都出身。1921年(大正10年)東京音楽学校卒業。昭和のはじめ内田栄一が主宰するヴォーカルフォア合唱団に参加。NHKラジオで放送していた「放送オペラ」では1927年~1930年の第一次放送にレギュラーとして出演していた。ヴォーカルフォア合唱団で同じく女流歌手だった佐藤美子を大変かわいがっていた。1930年に日本楽劇協会公演のオペラ「お蝶夫人」で主演を務めた。・・1931年、夫の松平博と共にイタリア留学した。イタリアでは、渡邊光、児玉義雄、中川牧三、佐藤千夜子、関屋敏子、菊池綾子らと知り合い、ミラノの藤原義江邸に滞在していた。しかし病に倒れ、藤原義江の妻・藤原あき子の懸命の看護によって一時はレッスンを再開するまでに回復するも、9月22日に35歳で客死した。
松平 里子   靴屋の唄(「天晴れウォング」中の唄)
長田 秀雄[作詞], 橋本 国彦[作曲], 松平 里子, 徳山 璉, 日本ビクター管弦楽団[伴奏] (ビクター, 商品番号 : 13091, 1930-09)
靴屋の唄(「天晴れウォング」中の唄) - 歴史的音源


筆 香   鴨川小唄   先斗町 筆香, 先斗町 三智子[三味線] (ビクター, 商品番号 : 51243, 1930-05)

鴨川小唄(先斗町 筆香)2


藤原 義江、藤井 清水

藤原義江 - Wikipedia
(ふじわら よしえ、1898年(明治31年)12月5日 - 1976年(昭和51年)3月22日)は、日本の男性オペラ歌手、声楽家(テノール(テナー))。戦前から戦後にかけて活躍した世界的オペラ歌手であり、藤原歌劇団の創設者。父親がスコットランド人で母親が日本人のハーフ(混血)。大阪府生まれ。1898年(明治31年)、山口県下関市で貿易商(ホーム・リンガー商会)を営んでいた28歳のスコットランド人、ネール・ブロディ・リード(Neil Brodie Reid)と、同地で活動していた23歳の琵琶芸者、坂田キクとの間に大阪で生まれた。・・義江が7歳程の時、現在の大分県杵築市の芸者置屋業、藤原徳三郎に認知してもらうことで「藤原」という姓を得、またはじめて日本国籍を得ることとなった。
藤原 義江    ジプシーの唄  佐伯 孝夫[作詞], ハンガリー民謡, 鈴木 静一[編曲], 藤原 義江[テノール], 管弦楽伴奏 (ビクター, 商品番号 : 13477, 1936-06)

藤原義江 Yoshie Hujiwara_ ジプシーの唄 Zigeunerweisen (1936)


藤井清水 - Wikipedia
(ふじい きよみ、1889年2月17日 - 1944年3月25日)は、日本の作曲家。童謡作曲家、民謡研究家。広島県安芸郡焼山村(現・呉市)出身。生涯に約1900曲も作曲、編曲しながら、あまり世に知られることのなかった人である。のちに、『日本民謡大観』のもととなる民謡の採譜をたくさん行い、民謡の楽譜化に力を尽くして、日本民謡の音楽的研究の推進に多大な貢献をした。医師として由緒ある家の三男として、生を享けた。幼い頃から三味線の音を聞き分け、調子を合わせることができたという。
藤井 清水 作曲  藤原 義江 歌   旅の鳥   野口 雨情[作詞], 藤井 清水[作曲], 藤原 義江[テノール], 日本ビクター管絃楽団[伴奏] (ビクター, 商品番号 : 13279, 1933-03)

If Roddy Ricch was in your class 2


感想
まず、どういう順番で掲載してあるのかが分りません。五十音順でもなく、分野もばらばらです。それと文章を読まないと何をしているのか不明な人が多くいます。58人中名前を聞いたことがあるのは10人足らずです。特に筝曲・尺八・琵琶・長唄などの邦楽は知らない人が多いです。邦楽系で分るのは筝曲の宮城道雄、流行歌も歌った市丸、勝太郎ぐらいです。
前半の37名の内訳を見ると、歌手23名、作曲家7名、演奏家3名、作詞家2名、歌舞伎俳優2名となっていました。


以上です。
                                                    前ページ ⇦    レコード 總目録-11    ⇨ 次ページ