川崎市 菅の獅子舞 2023.9.9 子之神社揃い獅子 9.10 薬師堂 本獅子
神奈川県指定無形民俗文化財の「菅の獅子舞」を見に行ってきました。以前からこの獅子舞のことは知っていましたが、見るのは初めてです。前日に子之神社で行われる揃い獅子と、当日薬師堂で行われる本獅子の両方を見学しました。
菅北浦で見かけた「菅の獅子舞」ポスター
菅薬師祭礼の案内
川崎市教育委員会:薬師堂(菅の獅子舞)
県指定無形民俗文化財 平成13年2月13日指定
薬師堂のことを書いた記録に、菅薬師の獅子舞は文治3(1187)年に当地の領主稲毛三郎重成が薬師堂を建立した時にはじまったと記してある。しかし、一人立獅子舞は戦国時代から近世初期の史料が最も古く、鎌倉時代に行なわれていたとは考え難い。『法泉寺文書』に明和8(1771)年に復活していたという記載があるから、それ以前にすでに行なわれていたことが知られる。初山の獅子頭に近世初期のものがあり、一人立獅子舞が風流踊に関係のあることなどから、初山の獅子舞と同じ頃に行なわれていたと考えられる。
2023.9.9(土)曇
子之神社揃い獅子
子之神社での揃い獅子の開始は16:00ですが、手前にある法泉寺から踊りながら境内へ上るというので、早めに法泉寺へ行ってみました
子之神橋 の先右側に法泉寺があります
法泉寺の前には人だかりがあります
中へ入ると準備している獅子と天狗の姿が見えました
15:55 舞いながら出発です
天狗を先頭に 三頭の獅子 笛・ほら貝が続きます
法泉寺を出ます
天狗・獅子・笛・法螺貝の順番で子之神社の階段を上ります
16:03 子之神社の階段を上りきったところで待機
天狗だけ先に境内に入ってきました
土俵を模した敷物の上で舞います
3回行ったり来たりしているうちに、左の笛や右の唄の人達が集まってきました
一旦天狗は引っ込みました その間に境内を回ります
川崎市教育委員会:子之神社
子之神社(ねのじんじゃ)という名の神社は、南関東から東海地方にかけて集中的に分布し、川崎市域では、旧都筑(つづき)郡早野村、橘樹(たちばな)郡菅(すげ)・野川・梶ケ谷(かじがや)村の4社を数えるのみです。当神社の起源は定かではありませんが、『新編武蔵風土記稿』によると、鎌倉時代には、小沢郷7か村の総鎮守(そうちんじゅ)であったと伝えられます。この小沢郷は、川崎市域の菅・細山・金程(かなほど)から、隣接する稲城市域の坂浜村(多摩郡)付近にかかる範囲にあったと推定されています。時代は下がって江戸時代の頃になると、菅村の鎮守として、根ノ上社・根上明神・根之神社などと呼ばれていました。その後、明治10年(1877)の頃、社名を現在の「子之神社」に改めました。
獅子を待つ人達、観客はそれほど多くありません
16:20 天狗が獅子を連れて入ってきました
16:35 ここで暑さ対策のために10分間の休憩
再開しました
サイコロの小道具
唄う人達
これが雄獅子
これが雌獅子
これが臼(きゅう)獅子
いよいよ終りに近づいてきました
17:25 舞いながら土俵を出ていきます
舞い終ってくつろぐ演者たち
急な階段を下りて帰ります
<参考>
川崎市多摩区菅の獅子舞 平成26年9月13日(土) 法泉寺~子之神社
2023.9.10(日)晴
薬師堂 本獅子
川崎市教育委員会:獅子舞(菅の獅子舞)
菅の獅子舞は、薬師様の命日である9月12日に近い日曜日に、薬師堂境内の土俵で舞われます。この獅子舞の由来については、いくつかの記録が残されています。まず、菅の佐保田家に伝わる古文書『薬師堂縁起』によると、文治3年(1187)にこの地方の領主であった稲毛三郎重成が薬師堂を建立したとき、児童に獅子戯の舞祭をさせた事が初めてと書かれています。また、明和8年(1771)の法泉寺の古文書に、菅村の人々が毎年虫風祭りとして行っていた獅子角力踊りが12年前から停止されていたので復活させて欲しいと願い出た記録があります。さらに、天保7年(1836)に出された『江戸名所図会』に「毎年8月12日獅子舞ならびに弓を横たえて踊ることあり」と記されています。いずれにせよ五穀豊穣、疫病退散を祈って古くから獅子舞が行われていたようです。
今日は14:00から薬師堂で本獅子が行われる日です。昨日の揃い獅子と同様法泉寺から薬師堂まで踊りながら向うという噂を耳にしたため、早めに法泉寺へ寄ってみました。
子之神橋
13:33 法泉寺 人影は全くありません
そこでネットで見たA宅へ
左がA宅 祭の法被を着た人たちが大勢いました
大谷(おおやと)橋を渡り坂の途中を右に曲ります
菅北浦緑地入口 を通り過ぎ
薬師堂 入口 を右へ
薬師堂 一年の行事
菅の獅子舞ポスター
薬師堂が見えてきました
13:45 既に大勢の人が集まっています
階段の右側で かき氷 を売っていました
薬師堂
菅北浦1 菅薬師堂【32】 | 菅町会公式サイト
「薬師堂」は、この地域の領主であった稲毛三郎重成が建久6年(1195)に建立しました。重成は鎌倉時代初めの武将で、源頼朝の平家との戦さで数々の武功がありました。頼朝からの信頼はあつく、頼朝の妻・政子の妹君の綾子を重成は妻にもらいます。将軍・頼朝と義兄弟になった重成はいよいよ主君につくしますが、建久6年(1195)に妻は亡くなりました。悲嘆にくれた重成は出家して、菅に極楽寺という寺を建てて妻を手厚く葬りました。この寺の一部が「薬師堂」といわれます。その後、極楽寺は戦乱で焼失しますが天文2年(1533)に極楽寺と法泉寺が合併されました。今は法泉寺が管理しています。
本堂前は既に人でいっぱいです
下りて土俵の手前に移動しました
13:50 天狗だけが登場してきます
舞いながら行ったり来たりを三回繰り返します
14:08 天狗が3頭の獅子を連れて再登場です
雄獅子
雌獅子
臼(きゅう)獅子
菅の獅子舞は先導役の天狗面をつけた者1人、雄獅子・雌獅子・臼獅子が笛・歌にあわせ、胸につけた羯鼓を打ちながら舞う。9月11日に子之神社境内で揃い獅子、12日に薬師堂境内で本獅子、13日に小学校・郵便局などで舞う。(※)獅子は道行の囃子で祭場に入り、横にならんで舞う横舞から、乗込といって、天狗が先導して舞場に入り舞う。舞場に入ると地舞といい、各種の舞が舞われる。舞は風流歌が歌われ、獅子に天狗がからみ、道化的なことを演じ、見せ場を作る。
土俵に出揃いました
見守る観客
舞は続きます
14:25 ここで暑さ対策のため10分間の休憩です いままでは休憩なしだったそうです
菅薬師堂奉賛会 役員席
再開しました
サイコロをもっています
雌獅子隠しが始まりました
起こった獅子に倒される天狗
また、雌獅子隠しといって、雌獅子を臼獅子と雄獅子が奪いあったりすることがある。雌獅子隠しの場面は獅子舞の見せ場ように考えられている。舞場で一踊りし、入場の時の横舞の形をとり、神前に一礼して退場する。舞の基本は祭場に練り込み、悪霊鎮め・悪霊払いをして退場するというもので、一種の行道の形式をとる。胸に羯鼓をつけ、それをで打ち、風流歌をうたい舞うのが特色で初山の獅子舞と同じである。
15:13 舞は終了
舞手の紹介
次いで唄・笛・法螺貝の人達が土俵に上り紹介されました
境内を回ってみます
獅子頭が飾ってありました 左から 雄獅子 雌獅子 臼獅子
薬師堂を出ました
川崎市 菅の獅子舞 の感想
菅の獅子舞を始めて見ました。子之神社と薬師堂は隣町にあり、歩いて20分もかかりません。これまで10数回は訪れていますが、獅子舞を見る機会がなかったのです。
子之神社「揃い獅子」は翌日の薬師堂「本獅子」の予行演習のような感じでした。天狗と獅子は衣装・面をつけていますが、笛や法螺貝の人は私服のままです。伝統行事なのにもったいないと思っていたところ、本獅子では全員がお揃いの法被をきちんと着ていたので、何故か安心しました。揃い獅子と本獅子の舞いは時間も内容も殆ど同じです。
コロナ前までは地元の小学生・中学生が稽古を重ねて出演していたそうです。しかし、この3年間はコロナの影響でままならず参加できなかったため、再開させたいと司会の方が言っていました。伝統を確実に継承していくためにも、そう願うばかりです。
以上です。
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