mesetaのブログ

ウォーキングとフラメンコ
Walking,Flamenco&Guitar
Caminante,Flamenco y Guitarra

2019.11.14 両国界隈

2019.11.14(木)曇時々晴
ルート:両国駅~両国橋~大高源五の句碑~回向院(鼠小僧之墓)~相撲写真資料館~吉良邸跡~日本海軍不知火の錨~芥川龍之介文学碑~両国公園(勝海舟生誕の地)~お江戸両国亭~ 江戸東京博物館~相撲博物館~両国国技館(お土産店)~旧安田庭園~横網町公園(日本庭園)~東京都復興記念館~東京都慰霊堂~芥川龍之介生育の地~両国橋


今日は両国に用があり、来たついでに何ヶ所か巡ってみました。


10:00  両国駅西口を出ます


駅を出てすぐ右にある両国観光案内所に寄りました


観光案内所でもらったエリアマップの一部です、この中のいくつかを訪ねます


まず両国橋に向います、途中の通りにあるモニュメント、さすが相撲の町です


両国橋に着きました


10:08  エリアマップ ㉔大高源五の句碑 (左の碑)、橋の手前にあります


忠臣蔵四十七士の一人で、討ち入りの日を決定する重要な情報を入手したと言われる大高源五の句碑です。源五は俳人でお茶も嗜むことから、吉良上野介義央の在宅の日の情報を、上野介のお茶の師匠でもある山田宗偏から入手しました。大高源五の俳句といわれる「日の恩や 忽ちくだく 厚氷」を刻んだこの石碑は昭和3年に立てられました。


両国橋と百本杭


10:13  エリアマップ ㉗回向院、鼠小僧之墓があります


回向院は、今からおよそ360年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。
この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。


回向院 力塚

勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは明和五年(1768)のことで、寛政年間を経て文政年間にいたるまで、勧進相撲興行の中心は回向院とされてきました。
力塚の碑は、昭和十一年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものですが、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑として、現在も相撲と当院とのつながりを示す象徴になっています。


相撲関係石碑群


回向院 石造海難供養碑


回向院 塩地蔵

右手に錫杖、左手に宝珠を持たれており、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから、「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。


回向院 鼠小僧之墓

時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。
長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方があとをたちません。


欠き石、こちらの「お前立ち」をお削り下さい

鼠小僧の墓石を欠き、財布や袂に入れておけば金回りが良くなる、あるいは持病が治るとも言われ・・


回向院 俗名 中村次良吉之墓 天保二年八月十八日


回向院 猫塚

猫の恩返し(猫塚)


回向院 中村勘三郎の墓  延宝二年八月二十六日

 


回向院のいちょう


旧国技館跡 、明治42年(1909年)建設、3度の焼失・再建を経て昭和58年(1983年)解体


    旧国技館は、天保4年(1833)から回向院で相撲興行が始まったことから、明治42年(1909)に、その境内に建設されました。建設費は28万円(現在の価値では75億円程度)です。
 東京大空襲まで、三度の焼失があり、戦後は米軍に接収され、返還後は日大講堂などとして利用されていました。昭和58年(1983)に解体されました。


10:35  相撲写真資料館、開館日 毎週火曜日 ということで見学できませんでした


昭和4年に先代が旧両国国技館脇に開業して以来、60年以上にわたり相撲協会の専属を務めた写真館。相撲協会の公式行事や歴代の横綱、優勝力士、幕内全力士のほか、旧両国国技館→蔵前→新両国国技館という国技館の変遷、また、七五三、お宮参り、相撲教習所の卒業写真や力士の手形など、相撲に関する写真や展示品がたくさん所蔵されています。


10:36  エリアマップ 吉良邸跡


吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西733間(約134m)、南北は34間(約63m)あり、坪数2,550坪(約8,400㎡)と諸書に記されています。吉良上野介が近藤登之介の屋敷跡を拝領したのが元禄14年(1701)9月3日、義士の討入りがあって没収されたのが同16年(1703)2月4日ですから、実際に住んだのは1年半に満たない短期間でした。本所松坂町公園は昭和9年に地元両国三丁目町会有志が発起人となって邸内の「吉良の首洗いの井戸」を中心に土地を購入、同年3月の東京都に寄付されました。


吉良邸跡にあったパンフレット

吉良上野介を祀った稲荷神社


吉良上野介 みしるし洗いの井戸


吉良上野介坐像


10:42  日露戦争 日本海軍不知火の錨

この錨は日露戦争(1904年~1905年)で活躍した日本海軍の駆逐艦「不知火」のものである。
この艦は英国ソーニー・クロフト社製造・起工明治31年・進水32年・326トン・(艦長63.5m・5470馬力・30ノット・火砲6門・発射管2基・煙突2基)の構造である。猶この錨は両国一丁目の鉄鋼業岡田商事(旧岡田菊次郎商会)が軍艦の解体作業で得たのを昭和の初年に江東(現両国)小学校に寄贈したものである。


10:43  エリアマップ ㉙芥川龍之介文学碑



10:48  エリアマップ ㉚勝海舟生誕の地(墨田区立両国公園)


勝海舟は、文政6年(1823)1月30日、ここ本所亀沢の父小吉の実家である男谷家に生まれました。


勝海舟生誕の地説明板


勝海舟幕末絵巻


10:53  お江戸両国亭、円楽一門会の落語家や女性講談師が出演


10:59  エリアマップ ⑧江戸東京博物館


東京都江戸東京博物館は、江戸東京の歴史と文化をふりかえり、未来の都市と生活を考える場として平成5年(1993年)3月28日に開館しました。


両国国技館の裏側


11:18  相撲博物館、国技館の中にありますが改修工事のため長期休館中でした

相撲博物館 沿革・概要 - 日本相撲協会公式サイト


エリアマップ ⑦両国国技館  、現在は九州場所が行われているので休館中です

国技館のご案内 概要 - 日本相撲協会公式サイト


国技館の中の土産物店


国技館敷地内の神社


櫓太鼓のやぐら


俵星玄蕃の道場跡、忠臣蔵の架空の人にもかかわらず道場跡の説明板がありました


11:33  エリアマップ ③旧安田庭園 


もと常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資により元禄年間(1688〜1703)に築造されたと伝えられる。


旧安田庭園の駒止石


旧安田庭園の駒止神社


刀剣博物館、旧安田庭園に隣接しています


11:39  エリアマップ ②横網町公園 


横網町公園パンフレット

東京都慰霊堂 三重塔


東京都慰霊堂 日本庭園




12:08  復興記念館、横網町公園の中にあります


復興記念館 1階展示場


復興記念館 2階展示場


12:23  幽冥鐘


12:23  東京都慰霊堂、横網町公園の中にあります


関東大震災による遭難者の御遺骨を納める霊堂と、昭和20年の東京大空襲による犠牲者の御遺骨も併せて奉安しています。


12:28  横網町公園を出ました


12:37  ビルの上から見た東京スカイツリー


17:46  エリアマップ 22芥川龍之介生育の地 


17:55  両国橋から見た隅田川

遊覧船が近づいてきました


駆け足でしたが、改めて相撲と関わりの深い町だと感じました。


以上です。