mesetaのブログ

ウォーキングとフラメンコ
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墨田区13 北斎案内板を見ながら歩く北斎ゆかりの両国コース TOKYO Walking Map 2023.8.8

2023.8.8(火)晴  4.3km→3.7km
ルート:両国駅→旧安田庭園→すみだ北斎美術館→榛稲荷神社→吉良邸跡(本所松板町公園)→両国橋→回向院→両国駅


このコースは「すみだウォーキングマップ」の2020年版に掲載されています。
墨田区コース03のゴールと同じ両国駅からのスタートです。


トウキョウ ウォーキング マップ 東京都福祉保健局のサイト

墨田区13 北斎案内板を見ながら歩く北斎ゆかりの両国コース
すみだ出身の世界的な絵師・葛飾北斎の生誕の地があり、エリア内には様々なゆかりの地があります。
最寄駅:両国駅(JR) 所要時間:約60分 距離:約4.3km 消費カロリー:約190kcal 歩数:約6200歩


11:56  両国駅  西口  スタートしました


百本杭跡  国技館通りを渡ったところにあります  

温泉と歴史探訪 百本杭跡
百本杭とは、総武線鉄橋あたりの隅田川の湾曲した東側の部分に打たれていた護岸のための杭で、ここからほど近い川中にありました。川の流れを和らげて、土手を保護する役目を負っていました。その辺りは、明治中頃までは鯉の釣り場として有名で、釣り好きの幸田露伴もよく出かけたといわれています。


両国国技館前の信号を渡りました


北斎案内板④ 新柳橋の白雨、御竹蔵の虹  

葛飾北斎ゆかりの案内板を設置しました 墨田区公式ウェブサイト
世界的な絵師・葛飾北斎は、墨田区(本所南割下水付近)で生まれ、生涯のほとんどを区内で過ごしたと言われています。墨田区では、観光客等に区内のまち歩きを楽しんでいただくため、北斎が浮世絵の画題とした場所に案内板を16基設置いたしました。
すみだが誇る世界の絵師 葛飾北斎 が描いた風景をたどろう
新柳橋の白雨 御竹蔵の虹:狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。にわか雨に降られ、傘を持った人々が新柳橋の上を走っている様子が、隅田川の対岸から描かれています。白雨というのは天気雨のことです。


両国国技館北交差点  旧安田庭園が見えます


12:02  旧安田庭園  西門  中へ入ります

元禄年間に造られた大名庭園。園内には北斎が題材とした駒止石があります。

すみだスポット - 旧安田庭園 | 一般社団法人 墨田区観光協会
もと常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資により元禄年間(1688〜1703)に築造されたと伝えられる。かつては隅田川の水を引いた汐入回遊式庭園として整備される。明治維新後は、旧備前岡山藩主池田侯の邸となり、次いで安田善次郎氏の所有となりました。氏の没後大正11年東京市に寄附されました。関東大震災後、太平洋戦争を経て東京都から墨田区に移管され、全面的改修を行い、復元、開園しています。

旧安田庭園 駒止石  


北斎案内板③ 駒止石 はコースマップの位置が違っていました
この場所に案内板マークが書かれていますが、実際は旧安田庭園 西門の先にあります
そのため見落としました
Googleストリートビュー

すみだが誇る世界の絵師 葛飾北斎 が描いた風景をたどろう
③ 駒止石:文政時代(1818-1830)の正月の配り物として摺られた「馬尽」シリーズの一枚です。手前側に駒止石、一番奥には雪を頂いた富士山が描かれています。寛永8(1631)年の初夏、暴風雨で隅田川が氾濫し、あたり一帯が大洪水に見舞われた際、三代将軍家光が本所地区の被害状況調査を命じたところ、旗本阿部豊後守忠秋ただ一人がその濁流を馬上巧みに渡河し忠誠心を示したという逸話があり、その際に馬を繋いだのが「駒止石」です。


旧安田庭園 駒止井戸  


旧安田庭園 駒止稲荷  


旧安田庭園 東門から出ました


旧安田庭園前交差点を渡り 横網町公園 西門 へ  

横網町公園~東京で散歩やウォーキングができる公園 
1922年、元々陸軍が使用していた土地を当時の東京市が買収して整備を開始。1930年に開園した。震災による死者約5万8千人の遺骨を納めた納骨堂には、戦後空襲の犠牲者たちが合祀され、1951年、「東京都慰霊堂」と改称された。

横網町公園 東京都慰霊堂 三重塔   


横網町公園 東京都慰霊堂  


横網町公園 東京都復興記念館  


横網町公園 正門を出て 清澄通りを右折  


横網町公園前交差点 左折  


信号 右折  


北斎通りに出て左折  


すみだ北斎美術館前交差点 右折  

緑町公園  


緑町公園から見た すみだ北斎美術館  

すみだ北斎美術館 - 建築 
設計コンセプト    設計者 妹島和世
・訪れる人が気軽に立ち寄ることができる、公園や地域と一体となった美術館です。大きな1棟ではなく、スリッ トによりゆるやかに分割された外観とすることで、周辺の下町市街地のスケールとの調和を図っています。
・浮世絵作品の保存展示を考慮し、建物全体として閉じながらも、スリット部分からは館内の様子が伺え、地域の人々にとってすみだ北斎美術館が身近に感じられるものとなります。
・建物外壁は、淡い鏡面のアルミパネルを使用しています。建物外壁にやわらかく下町の風景が映り込み、周辺地域の風景に溶け込みます。


 12:26 すみだ北斎美術館  先ほどコース03で入ったので、今回はパス

すみだ出身の世界的な絵師・葛飾北斎の作品が見られます。

すみだ北斎美術館 - トップ
世界的な画家として評価の高い葛飾北斎は、宝暦10年(1760年)に本所割下水付近(現在の墨田区亀沢付近)で生まれ、90年の生涯のほとんどを墨田区内で過ごしながら、優れた作品を数多く残しました。墨田区では、この郷土の偉大な芸術家である北斎を区民の誇りとして永く顕彰するとともに、地域の産業や観光へも寄与する地域活性化の拠点として、「すみだ北斎美術館」を開設しました。 9:30~17:30 休館日 毎週月曜日 一般400円


総武線を越え  


緑二丁目交差点  右折  京葉通りへ


清澄通りに出て右折 すぐ左折

13:34  榛(はんのき)稲荷神社  

晩年の北斎は、娘のお栄と一緒にこの辺りに住んでいたと伝わっています。

すみだスポット - 榛稲荷神社 | 一般社団法人 墨田区観光協会
このあたりは、榛馬場とよばれた馬場のあったところで、東西102間(約185m)南北12間(約22m)ありました。この馬場は本所に住む武士の弓馬の稽古を目的としたものです。この馬場の傍らに祀られていたのが榛稲荷神社です。この神社には天保8年(1837)亀沢町の若者中が奉納した1対の木製朱塗りの奉紙立が現存しています。


榛稲荷神社 榛馬場跡  

東京都墨田区の歴史 榛馬場跡(榛稲荷神社)
この辺りには、榛馬場と呼ばれた馬場がありました。本所に住む武士の弓馬の稽古のために設けられ、周りを囲む土手に大きな榛(カバノキ科の落葉高木)があったところから、そう呼ばれたようです。勝海舟の父小吉の著書「夢酔独言」の中にも、子どものころの回想として、榛馬場のことが出ています。馬場の傍らに祀られていたのが、この榛稲荷神社です。


榛稲荷神社 葛飾北斎住居跡  

東京都墨田区の歴史 葛飾北斎住居跡(棒稲荷神社)
本所(現在の墨田区南部)に生まれた絵師葛飾北斎は、この稲荷神社のすぐ近くに住んでいたことがありました。北斎は90歳で没するまで常に新しい技法を試み、「冨岳三十六景」に代表される錦絵だけではなく、肉筆画も手がけ、数多くの作品を生み出しました。榛馬場の辺りに住んでいた当時の様子を伝えるのが、「北斎仮宅写生」(露木為一筆)です。絵を描く老いた北斎と娘の阿栄が描かれています。阿栄も優れた絵師でした。


突当りを左折してから


京葉道路に出て右折後すぐ両国三丁目交差点の信号を渡ります  


芥川龍之介文学碑   

東京都墨田区の歴史 芥川龍之介文学碑
芥川龍之介は、明治25年(1892)3月1日、東京市京橋区入船町に新原敬三、ふくの長男として生まれました。辰年の日辰の刻に生まれたのにちなんで龍之介と命名されました。生後7ヶ月の時、母ふくが突然発病したために、本所区小泉町15番地(現両国3丁目)に住んでいたふくの長兄芥川道章に引き取られ、13歳の時芥川家の養子となりました。


両国小学校の先右折


吉良邸正門跡  

東京都墨田区の歴史 吉良邸正門跡
この辺りに吉良邸正門がありました。元禄15年(1702)12月14日、寅の刻(午前4時)の七つ鐘を聞いた後、大石内蔵助以下23名が用意の梯子で邸内に侵入して、内側から門を開け、「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入しました。

12:47  吉良邸跡(本所松板町公園)  

赤穂浪士の討入りで知られる吉良上野介の屋敷跡。北斎も討入りの場面を描いています。


吉良邸跡 松坂稲荷大明神  

東京都墨田区の歴史 松坂稲荷大明神
『松坂稲荷』は「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したものです。「兼春稲荷」は徳川氏入国後、現今の社地たる松坂町方面に御竹蔵を置かれし当時、其の水門内に鎮座せしもので元禄15年(1702)の赤穂浪士討入り後、吉良邸跡へ地所清めのために遷官され、昭和10年(1935)に既存の「上野稲荷」と合祀され、当本所松坂町公園開園とともに当所に遷座されました。


吉良邸跡 

吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西733間(約134m)、南北は34間(約63m)あり、坪数2,550坪(約8,400㎡)と諸書に記されています。吉良上野介が近藤登之介の屋敷跡を拝領したのが元禄14年(1701)9月3日、義士の討入りがあって没収されたのが同16年(1703)2月4日ですから、実際に住んだのは1年半に満たない短期間でした。本所松坂町公園は昭和9年に地元両国三丁目町会有志が発起人となって邸内の「吉良の首洗いの井戸」を中心に土地を購入、同年3月の東京都に寄付されました。


吉良邸跡 みしるし洗いの井戸  


吉良邸跡 吉良上野介義央公  


吉良邸跡 北斎案内板⑥ 新板浮絵忠臣蔵 第十一段目   

すみだが誇る世界の絵師 葛飾北斎 が描いた風景をたどろう
 「元禄赤穂事件」を描いたシリーズの一枚です。当時の人形浄瑠璃や歌舞伎の演目にも盛んに取り入れられた「仮名手本忠臣蔵」の大詰め、吉良邸への赤穂浪士討ち入りの場面が浮絵の様式で描かれており、軒先や建物のラインが奥行を感じさせます。赤穂浪士に囲まれて孤軍奮闘しているのは、吉良側の剣豪、小林平八郎と思われます。この夜吉良上野介を護って討ち死にした小林平八郎は、自分の曾祖父であると、北斎自ら語っていたそうです。


 吉良邸跡 大石内蔵助以下36名署名義士親類書  


吉良邸跡 吉良町甚句  

吉良邸跡 両国三丁目町会有志による土地の購入と東京市への寄贈 昭和8年11月14日 


吉良邸跡を出ました


飯澄稲荷  吉良邸跡のすぐ前にあります

飯澄稲荷神社
この神社は松坂稲荷大明神が鎮座する「本所松坂町公園」の斜め前に鎮座しております。嘗ての吉良家屋敷は8,400平米もあり広大であったようですから、ここも屋敷神であったのかも知れません。しかし由緒書は無く詳細は不明です。


鏡師中島伊勢住居跡  

東京都墨田区の歴史 鏡師中島伊勢住居跡
中島伊勢の住居は、赤穂事件(忠臣蔵)の後、町人に払い下げられた本所松坂町となったこの辺りにありました。伊勢は、幕府用達の鏡師で、宝暦13年(1763)、のちに葛飾北斎となる時太郎を養子とします。
北斎の出生には不明な点が多く、はっきりとしたことは判りません。中島家は養子縁組を破談とし、実子に家督を譲りますが、その後も北斎は中島姓を名乗っていることから、中島伊勢の妾腹の子だったという説もあります。


前原伊助宅跡  

忠臣蔵 前原伊助宅跡 41 - Monumento(モニュメント)
この辺りに、前原伊助 宅がありました。伊助は、赤穂浪士四十七士の一人で、浅野家家臣前原自久 の長男として生まれ、延宝四年(1676)に家督を継ぎます。金奉行として勤仕したため、商才に長けていました。浅野内匠頭の刃傷事件後は江戸急進派として単独で別行動を取りました。初めは日本橋に住んでいましたが、やがて吉良邸裏門近くの本所相生町二丁目に移り住み、「米屋五兵衛」と称して店を開業し、吉良家の動向を探りました。


一の橋通りに出て左折 すぐ右折


春日野部屋   「本日は見学できません」の看板が見えます

すみだスポット - 春日野部屋 | 一般社団法人 墨田区観光協会
春日野部屋は、大正時代に「はず押し」一本の押し相撲に徹して、幕内取組数201のうち167勝を誇る大横綱・栃木山が起こしました。現在の師匠は11代・春日野清隆(元関脇・栃乃和歌)で、現役時代は安定した実力で76場所もの間、幕内で活躍しました。


両国橋の手前にはいくつもの案内板があります


石尊垢離場跡  

温泉と歴史探訪 石尊垢離場跡(旧両国橋東詰)
石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山のことです。山頂の阿夫利神社は、商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸中期、江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけました。出発前に水垢離を取り、体を清めました。その垢離場が旧両国橋の南際にありました。川の底に石が敷いてあり、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子・・・」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流したのです。


赤穂浪士休息の地  

東京都墨田区の歴史 赤穂浪士休息の地
元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士は、本所二ツ目の吉良邸に討ち入り、主君である浅野内匠頭の仇討ちを成し遂げました。赤穂浪士が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げ前に休息をした場所がここにあった広小路です。休息後、大名との無益な衝突を避けるため、登城路になる旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。


旧両国橋・広小路跡  

東京都墨田区の歴史 旧両国橋・広小路跡
旧両国橋は現在の両国橋の下流約50メートルのこの辺りに架かっていました。完成は万治2年(1659)12月。明暦3年(1657)の大火が大災害となったため、幕府が防災上の理由から架け、武蔵と下総の国を結ぶ橋なので、両国橋と呼ばれました。 橋の上は、四方が眺望できる絶景の場所で、近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の筑波山まで見えたようです。橋が架かったことで交通の要衝となるとともに、橋の袂には火除け地としての広小路が設けられました。

「駒留橋跡」「片葉の葦」「藤代町跡」   

絵本「本所ななふしぎ」より 本所七不思議の舞台になった場所を訪ねて - お出かけいく
両国橋のそばに 駒留橋という小さな橋がありました。その駒留橋の近くの、あしを、よく見てみると、不思議と片側にしか葉がないそうです。昔、このあたりで女の人が殺されたそうです。
この話の舞台の場所は、現在の両国橋のたもと(墨田区側)。両国橋の近くには「駒留橋跡」「片葉の葦」「藤代町跡」の高札が並んで設置されています。葦が片方だけにしか葉が生えないようになった謂れは、本所横網町に住んでいた留蔵という男が、三笠町のお駒という女性に一目惚れ。留蔵は何度もアプローチをしますが、お駒は見向きもしてくれません。ある日、そんなお駒に腹をたて留蔵は、お駒の片手片足を切り落とし堀に投げ捨てて殺害したそうです。それからというもの、ここに生える葦には、葉が片方しかはえなかったというもの。


京葉道路に出てすぐ左に両国橋があります


13:07  両国橋  

北斎は、納涼の人々でにぎわう両国橋の様子を描いています。


両国橋 北斎案内板⑤ 両国納涼 一の橋弁天  

狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。納涼の人々で賑わう、昼間の両国橋の様子が描かれています。手前は当時、江戸屈指の盛り場であった両国広小路であり、掛け小屋や茶屋などが並んでいるのがわかります。絵本ならではの横長の構図が、この絵の大きな特徴と言えるでしょう。


両国橋 大高源吾句碑   左

すみだスポット - 大高源五句碑 | 一般社団法人 墨田区観光協会
忠臣蔵四十七士の一人で、討ち入りの日を決定する重要な情報を入手したと言われる大高源五の句碑です。源五は俳人でお茶も嗜むことから、吉良上野介義央の在宅の日の情報を、上野介のお茶の師匠でもある山田宗偏から入手しました。大高源五の俳句といわれる「日の恩や 忽ちくだく 厚氷」を刻んだこの石碑は昭和3年に立てられました。


両国橋 表忠碑    

東京都墨田区「両国橋」の『表忠碑』参拝
明治三十七八年戦役の戦病死者、すなわち日露戦争でご出征され、護国の為に身命を捧げられた英霊がお奉りされております『表忠碑』です。


両国橋と百本杭   

東京都墨田区の歴史 百本杭跡
両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。昭和5年(1930)に荒川不水路が完成するまで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して川岸が浸食されました。両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。

旧国技館(大鉄傘)跡    

東京都墨田区の歴史 国技館(大鉄傘)跡(回向院)
国技館は、この回向院の境内に明治42年(1909)に建設されました。32本の柱をドーム状に集めた鉄骨の建物は大鉄傘とも呼ばれ、1万3千人収容の当時最大規模の競技場でした。日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾が設計を監修しました。


13:12  回向院  

境内で北斎が巨大な絵を描く大パフォーマンスを行ったと言われています。

回向院 | 歴史の中で庶民と共に歩んできたお寺 
 回向院は、今からおよそ360年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。・・・「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。


回向院 力塚  

日本の国技である相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集めのための勧進相撲興行の形態をとっていました。その勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは明和五年(1768)のことで、寛政年間を経て文政年間にいたるまで、勧進相撲興行の中心は回向院とされてきました。


回向院 聖観世音菩薩立像  

回向院 馬頭観世音菩薩像 回向院の開創間もない頃、将軍家綱公の愛馬が死亡し上意によってその骸を当院に葬ることになりました。その供養をする為、回向院二世信誉貞存上人は馬頭堂を建て自らが鑿をとって刻し安置した


回向院 馬頭観音堂  


回向院 石造海難供養碑  


回向院 ねずみ小僧の墓  

時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。


回向院 猫塚   


回向院 清長碑(鳥居清長の墓)   

鳥居清長碑建立 | 回向院 | 歴史の中で庶民と共に歩んできたお寺
回向院では、平成25年4月に境内に「清長碑」を建立し、浮世絵師清長の偉業を永く顕彰することといたしました。六大浮世絵師の一人として世界的にも高く評価されている「鳥居清長」。現実的な背景に美人を群像的に配する清長の作風は美人風俗画と称され、後の大判続物(※1)の発展の基礎を築き、「天明のビーナス」とうたわれる、長身のすらりとして美しい清長美人は、浮世絵黄金期の華となりました。 


回向院 本堂  

回向院を出て真っすぐ進みます


国技館通り の 力士像   

温泉と歴史探訪 国技館通りの力士像 北斎ベンチ
国技館通りに、全部で7基の力士像と手形の碑があります。


13:28  両国駅  西口  ゴールしました


次のコース23は錦糸町駅からなので、総武線に乗ります


Google マイマップで作成 Geographica のトラックデータ


カシミール3Dのグラフ  4.3km→3.7km


墨田区13 北斎案内板を見ながら歩く北斎ゆかりの両国コース のコースタイム

経由地 距離km 累計km 総h 所要h 見学h 着t 発t
両国駅  0.0km  0:00  11:56
旧安田庭園  0.3km  0.3km  0:07  0:06  0:01  12:02  12:03
すみだ北斎美術館  1.1km  1.4km  0:31  0:23  0:01  12:26  12:27
榛稲荷神社  0.4km  1.8km  0:39  0:07  0:01  12:34  12:35
吉良邸跡(本所松板町公園)  0.6km  2.4km  0:56  0:12  0:05  12:47  12:52
両国橋  0.6km  3.0km  1:13  0:15  0:02  13:07  13:09
回向院  0.2km  3.2km  1:26  0:03  0:10  13:12  13:22 
両国駅  0.5km  3.7km  1:32  0:06  13:28 
コース23へ
2023/08/08(火)晴  3.7km  1:32   1:12  0:20


墨田区13 北斎案内板を見ながら歩く北斎ゆかりの両国コース の感想
すみだが誇る世界の絵師 葛飾北斎 が描いた風景をたどろう」によれば、北斎案内板は全部で16種類あるようです。今回はそのうち3ヶ所を回りました。他のコースでもいくつか見かけたので、これで半分以上は見ているのではないかと思います。
コースマップの北斎案内板の位置に誤りがありました。③駒止石の案内板が旧安田庭園内に書かれていますが、実際は庭園外の国技館通りにあります。駒止石の周辺を懸命に探してしまいました。
すみだ北斎美術館は既に見学済みだったため、パスしたせいか標準距離4.3kmに対して実際距離は3.7kmと600mも短かったです。


以上です。
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  菊川駅                            本所吾妻橋駅